表現者という言い方をした理由

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれないへのエントリー進行形OutPut:表現者と背骨?:大学四年生で小説と卒論を書いてみてでご指摘いただいた「表現者」に対する違和感についてですが、先の私のエントリーで私が一番残念だった点が、研究ができるかどうかではなく、

何度も何度も「研究には正解とか不正解とかない。誰も答えを知らないから研究になっているんだ。だから、自分の主張をとりあえず述べて、相手の反論が正しいと思えてから自分は間違っていたと考えれば良いんだよ。」と伝えたのだけど、最期まで君は自分の主張の正しさを自分の言葉で言えず、常に私の保証を求めたね。

にあったからです。

ご指摘を受けて自分のエントリーを読み返してみるとうまく書けていませんが、私が一番困ってしまったのは正解が分からない事柄について発言が止まってしまうことと、発言した事柄について私に正解の保証を求めてくることです。「適切かどうか/良いかどうか/正解かどうか分からない事柄についての発言=表現」と考えましたので「表現者」という言葉を使いました。別に研究に限った話ではないですから。絵画や音楽を表現として並べたのは、自分の発言が必ずしも言葉で為されるとは限らないと思ったためです。

それで、どうして正解が分からない事柄について発言が止まってしまうのかということを考えたときに、間違うのが怖いからだろうと思い、間違うのが怖いのは自分の中に価値判断の基準がないからだと思いましたので、自分の中にある価値判断の基準を精神的背骨と呼びました。自分の表現を律するのはこの価値判断基準ですから。

一つ目の違和感についての部分で私とingot.jpさんには認識の違いがはっきり理解できたように思えます。

対して、卒論の方は、非常にダブルバインド的というか、
一方では、論文としての体裁、「形式面」が求められる以上、そこには「書き換え可能性」が暗黙裡にかつ厳然と想定されているわけですよね。にも関わらず、「精神的な背骨」とのリンクも求められる。

批判対象は「行為」「発言」「表現物」としよう - 発声練習
で、書き手自身が書いているとおり、「卒論」が純粋にものとして批判されるなら、そりゃあこっちも優等生的に相手の基準でよいものを構築しようとしますよ、でも、そこでちゃぶ台返しみたいに、「精神的な背骨」を求められても・・・

この部分は、違和感がどこにあるのか私にはちょっとわかりません。卒論中の事実に関しては自分の中の価値判断基準に関係ない事柄だと思いますが、その事実から引き出す主張は常に自分の中の価値判断基準に基づきつむぎだされるはずですので、「精神的な背骨」とのリンクが求められるのは当然だと思います。

逆に優等生的に相手の基準でよいものを構築するのは嘘を書くことですので、あんまりよろしいことではないかと。他人からの意見に納得したならば主張を変えれば良いですし、納得できないならばその理由を述べて納得できない旨を伝えればよいだけだと思います。

たぶん、ingot.jpさんと私の認識の違いに「主張=自分が発した発言」ととらえるか「主張=自分自身」ととらえるかが含まれているように思います。私は、主張は一つの発言であって私そのものではないと思っています。もちろん、私と深く関わっているものですけど。ですから、自分の価値判断基準に則り、その主張が成り立たないと考えたときには主張を変えます。他人の意見を聞いて、自分の価値判断基準がうまくないと納得した場合には価値判断基準を修正します。

二つ目の違和感の部分についてはちょっとポイントがわかりませんでした。たぶん、卒論が彼にとって重要なものだから発言できなくなったのであって、彼に精神的背骨がないから発言できなかったというのは言いすぎということだと思いますが、私としては、「正解が分からない事柄について発言が止まってしまうこと」が話のメインであり、研究というのは正解が分からない事柄について発言で成り立つので、そんなに飛躍はないかなと思っています。説明が悪いというのは確実でしょうが。

以上、ご質問の答えになっていれば幸いです