なんで、こんな文書かくす必要があるんだ?
対案なき実施の停止要求が是とされるケース
を読んで、自分の考える「対案のない批判」をして良い場合と悪い場合をまとめてみる。
大雑把にいって、
- 議論対象 A に対して、Aを実施するという選択肢と実施しないという選択肢が存在するならば、Aに対する対案なしにAを批判(および実施に中止)を求めてよい。ただし、Aを実施することの利益・損失と実施しないことの利益・損失を比較するべきである。
- 議論対象 A に対して、Aを実施するという選択肢しかないとき。Aの実施目的をAよりもうまく達成できる対案がない限り批判をするべきではない。もちろん、Aの実施目的をより良く達成できるするための批判はいくらしてもよい。
「実施する」と「実施しない」という選択肢があるとき
これは、対案なき実施の停止要求が是とされるケース。Togetter:熊森協会の活動について、invasivespeacie氏と__pon_氏のやりとりで行われている議論で、熊森協会の活動を批判している人はこのように判断している。
物事にはかならず良い面と悪い面があり、何かを実施した場合、それによって生じる良い面と悪い面がある。当然、それを実施しないことによっても良い面と悪い面が生じる。熊森協会のどんぐりまきの場合、住んでいる人たちが身体的・財産的被害を被らないようにするという観点からすれば、どんぐりまきはどういうことが起こるかというと以下のように考えられる。
-- | 良い点 | 悪い点 | |||
実施する | その付近に住んでいる熊がこの冬は死なない(かもしれない) | 熊が餌付けされてそこに出没するようになる | |||
実施しない | 熊がそこに出没しない | その付近に住んでいる熊が死ぬ(かもしれない) |
「実施する」(「実施しない」)という選択肢しかないとき
これは、対案なき実施停止要求は否とされるケース。実施する(実施しない)ということを大前提として、(実施する場合は)効率のみが批判の対象となる。より効率の良い実施方法を検討するために、現在の実施方法の弱点を検討するのはOKだけれども、「弱点があるから実施しない方が良い」という意見は通らない。それは単なる反対のための反対。
人によって前提が変わる
難しいのは同じ議論対象でも人によって、「実施するかしないか選択できる」話なのか、「実施するしかない」話なのかが変わるという点。
たとえば、先の熊森協会のどんぐりまきの話でも、「その付近に住んでいる熊が死ぬのを防ぐ」というのが最重要項目だとすると、実施しないと熊が死んでしまうため、「実施しない」という選択肢がなくなる。よって、「その付近に住んでいる熊が死ぬのを防ぐ」という目的を達成する他の方法を提示しないかぎり、「対案なき批判は止めろ」という切り返しを受けてしまう。
おわりに:議論対象はWhatのレベルかHowのレベルかをはっきりするべし
対案が何に対するものなのかをはっきりさせてから議論をした方がいろいろと有意義だと思う。
- 対案がWhatのレベル:「実施する」と「実施しない」という選択肢があるとき、すなわち「何をするか、しないのか」のレベル
- 対案がHowのレベル:「実施する」という前提で、「どうやるのか」のレベル
われわれは、良くWhatのレベルの話をするとみせかけて、Howを延々と論じていたり、Howのレベルの話をするとみせかけて、Whatから問い直していたりと自分たちが何について議論しているのか理解していないことがある。まずは、どちらのレベルから話をするのかをよく検討した方が良い。
ちなみに、事業仕分けは、Howのレベルの話をするという建前だったけど、実際は、Whatレベルの話をしていたのでいろいろと混乱があったのだと思う。