[メモ] なぜ、反証実験できないという話がうまくしみていかないのだろう?

科学の世界では、何か新しい考え方が本当かどうかが問題になるときには、新しい説を提出している科学者に、説得力のある証拠を提出する責任があります。 新しい説を信じない科学者が、無理をしてまで、反対の証拠を出す必要はないのです(もちろん、自分の研究の方向とうまく一致するなら、反対の証拠を出す場合もあります)。

に対する率直な疑問がでている。

ちょっと、科学者が傲慢(怠惰、めんどくさがり)と思われていてその傲慢(怠惰、めんどくさがり)という点に反発を受けているのではないかと思う。コストの話が「水からの伝言」を信じないでくださいにでているのも誤解をよんでいるように思う。

[メモ] 反証実験できない理由

反証実験をできない(しない)理由をapjさんのブログから転載。

事象の地平線::---Event Horizon--- :: 日本化学会の会誌に水伝批判の現状レポートのコメント欄:柘植さんの2006/09/20 8:51:50の書き込み

>「立証責任は主張する側にある」
>というのは、「主義」みたいなもの。
>自然法則ほどの「絶対性」は感じられない。

このご指摘はまさにそのとおりでして、私は「誰かが計算を間違えて万有引力を斥力と記述しても、我々は地球から放り出されたりしない」という言い方をしますが、自然現象や自然の事象、あるいは自然法則とは我々の「社会的取り決め」の外にあるという意味で絶対的です。それゆえ、我々は安心して計算間違いをして引力を斥力と記述することができます、放り出されませんから(笑)。

問題は、社会的な取り決めというのは、「絶対的」ではありません。つまり社会全体が誤認すれば社会がゆがむおそれを持っているという事です。私は検事の起訴要件不備の不当起訴時に弁護士のなすべき主張は「起訴要件不備」でありその不備な起訴要件(例えば日時が著しく曖昧な起訴)に対する反証(例えば、その著しく曖昧な日時対するアリバイ証明)をするなら、刑事裁判のシステムが崩壊するという言い方をしています。たとえ、そのあいまいな日時を全て包含するアリバイ証明ができたとしても、それをは付加的・予備的抗弁とすべきであり、あくまで主抗弁は「日時の曖昧な起訴は不当」でなくてはならない訳です。なぜなら、合理的理由のない日時の曖昧な起訴を一件でもゆるすなら、それが前例となって刑事裁判のシステムが崩壊するからです。ここには、計算間違いすることが許される「絶対的」なものに向き合うということと、一歩間違うと社会全体に悪影響を及ぼしかねない「社会取り決め」に向き合うときの姿勢の違いが起こりえるわけです。

ただ同時に、「検事の起訴要件が不備であるから無罪」という判決が出たときに、司法制度に詳しい者にはなんら違和感が無いわけですが、傍聴席の人には「違和感」があるという事も理解できます。なぜなら、アリバイ反証などのように被告人が犯罪を犯せなかったという証明ではないため「事実はどうなのよ」という意識が残るからです。つまり、司法的には「無実かどうか分からないけど無罪」となります。この「立証責任論」による「科学的には存在しない」という結論はそれと同じ事にしかならないわけです。

私が言いたいのは、そういう違和感は嫌でも傍聴席の人に飲み込んで貰わないとならない違和感だということです。その違和感におもねって、検事の不当起訴に対してアリバイ反証により対抗するなら、絶対的でない社会の取り決めとしてのシステムに崩壊の危険性までもたらしかねないからです。

上の話の要点解説はこちら。
事象の地平線::---Event Horizon--- :: 日本化学会の会誌に水伝批判の現状レポートのコメント欄:apjさんの2006/09/20 20:51:14の書き込み

この話の本質は、
・手続きをどうするかということが、歴史的経緯やら経験でもって決まっている
・手続きをすっ飛ばして何かすることは、手続きそのものを決めたことを否定してしまうことになる(手続き違反の場合は、内容を吟味せずに却下するのが、手続きの運用上正しいということ。手続き部分を満たして初めて内容の検討をすることになる)。
・結果として、その手続きから作られている社会システムを崩壊させる可能性がある
ということでは。

これの「絶対的でない社会の取り決めとしてのシステムに崩壊の危険性」をもたらしかねないということが前提で、反証できない理由は以下のとおり。

事象の地平線::---Event Horizon--- :: 日本化学会の会誌に水伝批判の現状レポートのコメント欄:apjさんの2006/09/08 12:53:56の書き込み

ニセ科学への対応の場合は「ない」ことを言わなければならない場合が多い。これが、実は科学ではとても難しい。「条件が悪かった」「今の技術では直接検出できない」など、その他もろもろの理由を全部クリアーしないと言えないが、技術的に不可能な場合もある。
 じゃあ、何をもって反証できたとするかという範囲を、先にニセを主張した側に出させるしかないだろう、というのが私の考え方です。

それで、反証実験を行えるようになる条件はこちら。

事象の地平線::---Event Horizon--- :: 日本化学会の会誌に水伝批判の現状レポートのコメント欄:apjさんの2006/09/08 12:53:56の書き込み

追試するかどうかの基準は単純で、
・論文として出版される程度にまでまとめられた説に対しては、費用と時間をかけて追試をする意味がある。
・論文すらない場合は、こちらから出向いて何かするには、実験条件の絞り込みからやらねばならず、コストがかかりすぎるのでやるべきではない。

[メモ] 科学的な事実と非科学的な事実。科学的に説明できることと科学的に説明できないこと。

水からの伝言は科学でない」という言葉もあいまいな意味を含んでいるような気がするので、何が「水からの伝言は科学でない」のかを自分なりに整理。

科学的な事実とは、同じ条件の下で同じ手続きに従えば誰がやっても同じ出来事が生じるという事実のこと。科学的事実には再現性がある。非科学的な事実とは、科学的事実でない事実のこと。すなわち、再現性のない事実。

科学的に説明できるとは、ある科学的な事実が起こる理由を既知の科学的事実とそれらの既知の科学的事実を説明する理論を用いて説明できること。科学的に説明できないとは、ある科学的事実が起こる理由を既知の科学的事実とそれらの既知の科学的事実を説明する理論を用いて説明できないということ。

科学的な事実の反対語は「非科学的な事実」であって、「科学的に説明できない」ではない。科学的に説明するためには、説明しようとする事実が科学的事実でなければならない。そして、科学的事実だからといって、その事実の起こった理由を科学的に説明できるとは限らない。この科学的事実なのに、その事実が起こった理由を説明できていない問題を未解決問題(Open Problem)という。

水からの伝言で使われている実験は、そもそも科学的事実でないというのが、「水からの伝言」を信じないでくださいの立場。科学的事実ではないので科学的に説明できるかどうかを論じるのはナンセンスであるということ。科学的事実でない事柄に対して、反証実験はできない。なぜならば、反証実験とは、ある事実が科学的事実ではないということを明らかにすることであるからだ。その事実がそもそも科学的事実でないのであれば、反証実験を行っても何も明らかにすることができない。

ある観察対象の出来事が起こる条件を集合C、手続きの集合P、材料の集合M、その出来事を観察した人の集合をHとすると、ある観察対象の出来事の発生は(C,P,M,H)の4つ組で表される。科学的事実とは(C,P,M)が同じであるとき、いかなるHでも常にその観察対象の出来事が発生することといえる。非科学的事実はそうではない。反証実験は、ある(C,P,M)に対して観察対象の出来事が発生しないことを証明する実験である。なので、(C,P,M)が決まっていない出来事に関しては、反証実験でつかった(C1,P1,M1)という3つ組に関してのみ、観察対象の出来事が発生しなかったということだけしかいえない(まあ、これは(C1,P1,M1)のときにその観察対象の出来事は発生しないという科学的事実なのですが)。よって、非科学的事実においては(C,P,M)が決まっていないので反証実験をどれだけやれば、その観察対象の出来事が起こらないことを証明できるのかわからない。

これはそもそも証明という手続きが、証明する対象をはっきりとさせていなければならないということに由来する話であるので、科学者が怠惰とか、傲慢とかという話ではない。