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人より〜が得意であるということを理由として、それが不得意な人の要求に応じる義務はない

以下を読んで「人より〜が得意であるということを理由として、それが不得意な人の要求に応じる義務はない」ということをまず思った。

個人的に興味深かった部分を転載。

.@orcajump 英国で一番決定的なのは、科学と社会の間にある「ギャップ」は、知識のではなく、もっと根本的・広範な問題認識のズレや信頼の欠如にあることがエスタブリッシュメントにも認識され、PUS(一般市民の科学理解)からPE(公共的関与)に軸足を移せたことですね。
hirakawah

他方「34学会」や学術会議に代表される日本の学界は今のところ、問題の所在を「国民の科学リテラシーが足りないから」という、英国では96年に破綻した見方を続けてるように思います。これがそのうち変わるのかどうか。変わる可能性は相当に低そうだなぁという気がしてます。 @orcajump
hirakawah

@hirakawah しかし、今、放射線に対していろいろな意味で過剰な反応があるのは、知識がないからではないですか? この問題に対して、今、欠如モデル以外の対策はあります? もちろん、悠長に何ヶ月もかけていいなら、双方向モデルも可能かもしれませんが
kikumako

いま指摘してきた問題は、放射線問題に対する情報提供という次元より大きなところの問題なんです。RT @kikumaco: @hirakawah しかし、今、放射線に対していろいろな意味で過剰な反応があるのは、知識がないから… (cont) http://deck.ly/~fYAl9
kikumako

んで、放射線問題に絞って見たとして、確かに放射線についての科学的な理解が足りなくて生じてる混乱は確かにありますし、それに対する処方箋は的確な知識や情報を提供することです。けれども同時に、市民が抱える不安は、政府や東電に対する不信感に根差してる部分も大きいです。@kikumaco
hirakawah

さらに不安、そてしその背後にある政府等に対する不信感には、政府は自分たちを守る気がないのではないか、将来病気になっても補償なんてしてくれないのではないか、そもそも低線量では科学的に証明できないというではないか、という、政治が答えなければならない不安もたくさんあります。
hirakawah

ついでにいうと、単に「科学知識の欠如は不安・反対の原因になる(原因は他にもありうるが、科学知識の欠如もその一つ)」という当たり前のことならば、あえて批判対象としての「欠如モデル」とは言いません。批判対象となるのは原因が知識欠如「のみ」だと考える場合です。 @kikumaco
hirakawah

つまり、たとえば原発を不安に思い反対するのには知識以外の様々な理由があるのに、それを知識の欠如のみの問題と考え、「正しい知識をご理解ください」と PA(public acceptance)に明け暮れるというパターンが、欠如モデルとして批判されてきたものです。 @kikumaco
hirakawah

@hirakawah ほぼトランスサイエンスの問題に限られると考えていいですか?
kikumako

そういう整理ができますね。「トランスサイエンスの問題なのに(正解が存在する場合の)サイエンスの問題であるかのように扱うこと」が批判対象の欠如モデルということになります。RT @kikumaco: @hirakawah ほぼトランスサイエンスの問題に限られると考えていいですか?
hirakawah

(続)ただ、困ったことにサイエンスとトランスサイエンスの境界は固定的ではなく、かつての英国のように強い不信感が広がると、本来だったらサイエンスの知識提供で片付くことが、トランスサイエンス・モードに投げ込まれてしまう場合もあります。 @kikumaco
hirakawah

欠如モデルが@hirakawahさんのおっしゃる「トランスサイエンスの問題なのに(正解が存在する場合の)サイエンスの問題であるかのように扱うこと」だとすれば、現在の科学コミュニティの問題は「トランスサイエンスの問題はサイエンスの問題ではないのに、判断において科学者が主体的に振る舞おうとすること」にあると解釈するのが妥当に思える。確かに納得。判断はその問題の関係者全員でなされるべき。科学者が言及できる範囲というものはトランスサイエンスの問題においては狭く、判断を行うとするならば、それは一般市民 or その問題の関係者としての自分であるしかないということか。

そうすると、科学コミュニティは何を声明として発表するべきなのだろう?非専門家の目線でみると、詳しい人に適切な行動指針をだしてもらうのが良いように思えるけれども。

今回の原発の話でいえば、原発に直接由来する危険度をゼロとするならば、日本国外に飛び出すのが一番。すくなくとも西日本に逃げるのがよい。ここまでは非専門家だってわかる話。専門家に求めたいのは、どこいらへんがしきい値なのかという点。このしきい値を安全にふると「政府、東電の犬」と評価され、危険にふると「原発以外のリスクを勘案していない非現実的な発想」と評価される。理想的には、これはサイエンスの問題ではないので、判断は関係者の個々人、および、関係者全員の合意で行われるべき。その判断に利用できる情報として、場合分けした複数しきい値を提供するのが無難なラインといえるというところか。非専門家にとって非常にストレスフルだけど、妥当ではある。