送り手と受け手の間で「これはフィクションである」と共有する重要性

以下の話は先日参加した歴史コミュニケーション研究会 第20回(4月18日(土)、15:00〜): Show must go on, History is going on. 歴史、フィクション、物語(せんだい歴史学カフェとの共催企画)で、登壇者の方が繰り返し言われていた「送り手と受け手の間で『これはフィクションである』と共有するのが重要だ。フィクションを事実として受け止めてはまずいし、フィクションを事実として送り出してもまずい」という話の好事例だと思う。

もちろん、この大前提の先には、以下の場合どう取り扱うかという懸念事項がでてくる。

  • 送り手が意図的にフィクションを事実に混ぜている場合
  • 送り手が無意識にフィクションを事実に混ぜている場合
  • 送り手が他者が作ったフィクションを意図的に事実としている場合
  • 送り手が他者が作ったフィクションをフィクションと気づかずに事実としている場合
  • 送り手がフィクションを事実と主張しているがために、受け手がフィクションを事実と受け止めた場合
  • 送り手がフィクションと事実の区別をあいまいに/誤解しやすいようにしているため、受け手がフィクションを事実と受け止めた場合
  • 送り手がフィクションと主張しているにも関わらず、受け手がフィクションを事実と受け止めた場合

STAP細胞事件や研究不正のときにも出てきたのがミスと不正行為を区別するのは難しいという点。そして、送り手と受け手には知識の非対称があるという点。

基本的には、専門家は非専門家に比べて知識や規範を身に着けているからこそ「専門家」とされているわけなので、送り手が大前提を守るべきだし、そのときの己が行える最大限の注意と技術をもってフィクションと事実を分けて提示すべきである。その上で、やっぱりうまく分けて提示できておらず、かつ、他の専門家から見て「いや、いくらなんでもそれは」という部分に関しては責任を果たすとともに、ごめんなさいすべき。

今回の金八先生の例でいえば、そもそもフィクションたるドラマ内のセリフであり、かつ、間違っていることが分かった時点でごめんなさいしているので受け入れられるのではないかと。江戸しぐさは、フィクションを事実として世の中に送り出し、いろいろと批判されている点について対応していないので、まあ、アレ。