当事者同士で資源の取り合いをしなければならないとき

Togetter:田口さんとの議論 政治と科学にまとめられていた主に榎木さんと田口さんの議論がおもしろい。議論の中で展開されている科学者のジレンマはとても良く分かる。

  1. 大前提として、科学者は自分の研究しているテーマに関して多大なコストをかけて(場合によっては人生をかけて)取り組んでいる
  2. 現在、事業仕分けで問われているのは「科学研究が大切なのはわかる。しかし、将来性のない無駄な分野に予算が投入されているのではないか?」ということ
  3. 科学者が国民に直に科学予算の必要性を説明するとき、国民から投げ返されるのは「じゃあ、予算総額はこれぐらいとして、投入する分野を自分で決めてくれ!」というもの
  4. 科学者は自分で必要性を訴えたのだから、自分のテーマが無駄なテーマであると判定されたならば、研究を止めなければならない
  5. でも、人生をかけて取り組んでいるテーマなので研究は止めたくない
  6. 矛盾が生じて、科学者コミュニティではまともな判断ができないことが予想される

この前提の下で、「国民の代表である政治家が予算投入分野を決める。科学者は政治家に説明を求められた時にちゃんと説明をする」というのが現状では良いのではないかという意見が提案されている。

田口さんの提示された辛辣かつごもっともな知見は以下のとおり。

僕が仕分け人で科学者に対する国民の指示を失わせたかったらこういいます。「わかりました。Spring-8スパコン、どっちかだけお金だします。議論して選んで下さい」科学者は醜態をさらすでしょうね。それでジ・エンドです。

戦術としてはこれ以上のやり方はないと思う「相手の選択肢を絞り、分断して統治せよ」。相手を自滅に追い込むにはこれ以上の手はない。

この辛辣な一手をはずすにはどうすれば良いのか?一つはこの一手を出させないようにすること。もう一つは、科学者が醜態をさらしたとしても「当事者だから当たり前だよね」と冷静に受け止めてもらうこと。

私が暮らしていく社会として好ましいのは、「当事者だから当たり前だよね」と冷静に受け止めてもらえる社会が好ましい。私たちの先祖や先達たちは、「人間というのは当事者になるとまともな判断ができなくなる」という知見を前提として、社会システムを改良してきた。その結実として存在するのが裁判制度。特に民事訴訟はそのために存在している。他にも、「身内がからむ事案は扱わない」という不文律を持っている職業、「自分がこの事案によって利益を受けるならば、その事案を扱わない」という内規(法律)がある職業は枚挙にいとまがない。

科学哲学的には議論があろうけど、ほとんどの科学者が当たり前の前提と考えているのが「人間は間違う」というもの。「人間は間違う」ので現象の再現性(同じ条件をそろえればその現象は何回でも発生する)や観察結果の客観性(誰がそれを観察したとしても同じ観察結果が得られる)が自然科学や人文科学を問わず「〜科学」と呼ばれる分野において重要視されている。

「人間は間違う」と「当事者は偏見を持ってしまうため冷静に判断できない」という事実をしっかりと理解した上で、「自分がある決定によって利益や損害をうけるとき、その決定を当事者はまともに下せない」という認識を多くの人に当たり前にもってもらい、「当事者自身にその判断をさせるのは、そもそもフェアではない」という考えを当たり前にするようにしたほうが良い(少なくとも、私は私の半径5mをそのようにしていくつもり)。

そして、「お前自身が〜する覚悟がないならば、この問題について発言するな」という風潮を社会からなくしたい(田口さんを非難しているわけではない。田口さんはそういう風潮があるから、振る舞えないだろうと予想しているだけ)。ここいらへんについてはこちらのエントリーでも書いた(自分の身にふりかかったときに冷静でいられないからこそ)。

で、じゃあ、私が「国民の代表である政治家が予算投入分野を決める。科学者は政治家に説明を求められた時にちゃんと説明をする」という意見に賛成であるかといえば、部分的に賛成。どこに賛成できないかというと、以下のとおり。

  1. この話は科学だけに限った話ではなく、すべての専門家に関して共通の話である
  2. 社会通念や日常感覚に相反する事案や規模に応じて性質が変化する事案が存在するため、政治家の日常感覚や一般常識だけでは最適な判定が下せない恐れがある(参考:選挙の経済学 投票者はなぜ愚策を選ぶのかデッドラインみんなの意見は案外正しい
  3. 政治家の行動は、有権者が望むあるいは有権者が満足するように振る舞われることが多い。なので、有権者自身にその事案を判定できる程度の情報帝京提供が必要不可欠である(参考:選挙の経済学 投票者はなぜ愚策を選ぶのか

なので、私の主張は「国民の代表である政治家によって予算総額が決定され、政治家によって委託された専門家コミュニティが当事者の意見や情報提供に基づき、オープンな決定プロセスによって予算投入分野および方法を決める。当事者は政治家および専門家コミュニティに説明を求められた時には事実に基づく意見および情報提供を行なう。また、専門家コミュニティは継続的に非専門家に対して自身の専門分野の必要性をアピールし続ける。」となる。もちろん、これは玉虫色の主張であるが、多くの人が納得する落としどころはこのあたりではないかと思う。