学習は他人に行ってもらうことができない行為なのだから無欠席は当たり前では?

クラス全員、欠席させない――。千葉県立一宮商業高(一宮町)から県立勝浦若潮高(勝浦市新官)に1日付で赴任した鈴木幹男教諭(36)のモットーだ。一宮商で一昨年度担任した3年生、昨年度の1年生と2年続けてクラス全員1年間欠席ゼロを達成。勝浦若潮高でも「学校を休むな」と指導するという。

「社会に出ると、少しぐらい体調が悪くても仕事を休めない。学校で休まないことを身につけさせたい」

鈴木教諭は一宮商で05年4月からクラス担任となり、クラス全員が欠席しないことを目標に掲げた。病気になることはあり、実現はなかなか難しかったが、07年度の3年B組、08年度の1年D組で達成できた。

入学式のホームルームで生徒と保護者に「学校に来ることはみんな平等にできる。今日から始めよう」と呼びかけるのが恒例となった。1年D組では、入学式からまもなくして、頭が痛いので休みたいと電話があったが、遅れてもいいからと母親を説得して生徒を登校させた。夏休みを過ぎると、「学校に来るのが当然」という一体感が生まれたという。 1年が終わって、クラス39人のうち、無欠席に加えて遅刻や早退もなかった生徒が29人いた。その一人、岡泉圭亮君(16)は「最初は無理だと思ったけれど、みんなが責任感を強くして頑張った」。

鈴木教諭は「不可能だと思っていたことでも努力すれば可能になると生徒は知ったことが素晴らしい」。(高木和男)

学習は属人性100%の行為なのだから、教える立場から考えてみれば無遅刻無欠席無早退を賞賛するのは当たり前。小学校や中学校ならば、学習の意味がわからないので「社会に出ると、少しぐらい体調が悪くても仕事を休めない。学校で休まないことを身につけさせたい」という理由で強制しても良いと思うけど、高校でこれはいまいちだと思う。

でも、「夏休みを過ぎると、『学校に来るのが当然』という一体感が生まれたという」とあるから、そもそも学校に行かないこと自体に抵抗感がない学校だったのかもしれない。そうならば、ショック療法的な意味で良いやり方なのかもしれない。

物事には常に良い面と悪い面があり、ある状況においては毒さえ薬になる。どのような状況でその事柄が行われたのかが重要。その意味で、朝日新聞のこの記事は単眼的。

追記

  • fuktommy 僕のやってる仕事の一部には "属人性100%" で "他人に行ってもらうことができない" ものもあるけど、ちゃんと有休休暇は取ってるので、この論はおかしい。

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なるほど、id:fuktommyさんのおっしゃるとおり、私も属人性100%の職だけど有休休暇は取る。なので、上の私の論はおかしい。補足説明させていただく。

学校は知識や方法論を学ぶ場であるという大前提を設けると以下の二つの特徴がある。

  • 学習者本人だけが授業を受けて意味を受ける(他人が授業を受けても、学習者本人は何も学習できない)。
  • 学習者がある授業を遅刻、早退、欠席した場合は、基本的には教師にその授業をもう一度してもらうことはできない。

なので、教師側からすれば無遅刻無欠席無早退を賞賛されるべきこと。なぜならば、無遅刻無欠席無早退の児童/生徒はその児童/生徒が得られるべき学習の機会を最大限に利用しているとみなすことができるため。

  • sol1og 「学習は属人性100%の行為なのだから、...無遅刻無欠席無早退を賞賛するのは当たり前」に驚いた。なぜかは未整理/学習が必要という前提に見えた点、人間相手なのに遅刻欠席をカバーする気がなさそうに見えた点

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学校は学習する場、授業を聞く機会を与えるのが主業務なのだから、学校側に責任がない限り、遅刻や欠席分の授業内容のキャッチアップは児童/生徒側が自主的に行うのが基本では?