日本にノーベル賞が来る理由

NBOnline:伊東 乾の「常識の源流探訪」でのノーベル賞に関する部分を編集・加筆したもの。短いのですらすら読める。ノーベル賞関連の記事だけをピックアップしたリンク集はこちら。

この本で主張している重要な点は「ノーベル賞というものも政治的メッセージがこめられた賞であり、純粋に業績のみで賞を与えているわけではない。業績にプラスして、常に『平和』と『人類(科学)の発展に寄与して欲しい』というメッセージがこめられている」という点。なので、ノーベル賞受賞者を輩出している日本にも当然のことながら「平和」と「人類(科学)の発展に寄与して欲しい」というメッセージが送られているということを我々日本在住者は理解しなければならないというのが著者の主張。

私が面白く、かつ、刺激的、かつ、戦慄させられたのは本の終わりにある主張。

そこでこの本の結びとして、日本に期待されている役割を、具体的なアクション・プランの形で記しておきましょう。日本という「ブランド」は、最高水準の科学技術を含めて、現在も世界に広がる主要な「差別の非対称性」を克服できる、唯一最大の結節点になっています。今後、日本での推進が望まれているのは、先ほど「トヨタ」「シャープ」などの社名と共に記したような貢献に加えて「人材育成」の部分、具体的に書くなら「日本の大学・教育機関の国際展開」が最も大きいと思います。

とりわけアジア、アフリカ、ラテンアメリカの3A地域に、世界最先端の水準で一切の値引きをしない「日本の大学の支店」を、現存する三つの差別を取り除いて展開してゆくことで、現状のアメリカの限界を超え、最も効果的に世界の信頼を獲得することができます。

もしカイロやナイロビ、リオデジャネイロ、リマ、カラチなどに、

  • 優秀な女性科学者を一切差別しない
  • (当然ながら)途上国出身者を優遇し
  • 自由なはずの米国ですら職位の得られない、優れた黒人科学者に門戸を開放する

という世界でもっとも「対称性」に開かれた「日本の一流大学」のネットワークを展開すれば国際的な学術界のブランド・バランスは一挙に変わります。判りやすくいえば日本へのノーベル賞の来方に明確な増加が見られるでしょう。

伊藤氏の言う3つの差別とは、 ノーベル賞受賞者の分布が「非常に男性優位に偏っていること」「地域に偏りがあること」「先進国でも黒人研究者など人種の偏りがあること」の三つ。確かに、非ヨーロッパ文化圏(あるいは、ヨーロッパ文化圏の新しい辺境)である日本ならば、極自然にヨーロッパと違う判断・視点で人類の業績を判断できる可能性があると思う。宗教的にも怖いくらいニュートラルだし、サラダボウル(他文化がそのまま社会に取り込まれる)は苦手だとしても、ミックスジュース(日本的に混ぜられる)は大得意だし。

伊藤氏曰く、8,300万円程度で「教授、助教授、講師、助手」とそろった大学・研究所の1講座を1年間維持できるそうです。7〜8講座で1学科。6億円ぐらい(1億人が6円ずつ払う)と一つの途上国に1学科が寄付できるという計算。伊藤氏は、この大学にGFPの遺伝子をクローニングし、そのGFPの構造を明らかにしたのに、今トラック運転手をせざる得ない暮らしを送っているプレイシャー博士を招聘したら、一発で世界の注目を集められるだろうと提案している。確かにこれはインパクトのあるアピールになる。

私がこのアイデアに戦慄した理由は、これは今現在存在する大学に対する痛烈な批判だから。

この本を読んで疑問に思った点は本の内容ではなく、研究者の流動性の話。アメリカの大学の場合、アメリカの大学で教員になる人は全員英語で授業を行うだろう。でも、ヨーロッパの場合、イタリアで授業していた大学教員がドイツに行ったときには何語で授業するんだ?もし、現地語で授業するというのであれば、日本の大学に外国人教員を増やす場合、その教員は日本語を習得しないといけなくなり、日本語圏という理由だけで障壁になる。もし、ヨーロッパの大学の授業の基本は英語であるのならば、日本の大学自体が変わり、学生は英語をしゃべらなくてはならなくなる(まあ、大学院だけの話かもしれないけど)。伊藤氏は「自国語で高等教育ができる日本は悪くない」と言っているけれども、研究者の流動性を上げる政策をとると「高等教育=英語で行う」ということにならないだろうか?