ケーススタディ:研究室の下級生の指導はどうするべきか

ちょっと、話の筋が追えないので出来事を自分なりにまとめてみる。

  • この研究室ではM2の発表練習を博士課程の学生や助教、若手研究員が見てあげる風習がある
  • M2が自分達の都合でバラバラに発表練習をしてもらおうとすると博士課程の学生や助教、若手研究員にとっては負担が増える
  • 例年はM2全員が同じ日に発表練習をするようにしていた
  • 今年はバラバラに申し出てきた
  • でも、何とか発表の3日前には全員の発表練習が終わった
  • 4人のM2のうち2人はもう一度発表練習を行うべき出来であった。M2のうち2人は博士課程進学予定で発表練習も良く出来ていた。
  • 特に博士課程進学予定の一人(以下、Sさん)は、特別研究員にも採用された優秀な人材だ
  • Sさんは、いつも謙虚に「私は研究者として生き残っていけるでしょうか」とか「私などまだまだです」と言っている
  • Sさんは、ひたすら自分に閉じこもって作業をしていた。一方、研究室の雑用やらをこなしながら発表を仕上げている学生もいる
  • Sさんは、他の研究室メンバーから好かれていない
  • このSさんが発表の直前になって、もう一度発表練習を見て欲しいと言ってきた
  • PineTreeさん(上記のエントリーの著者)は、このSさんの振る舞いを見て自分の論文や発表は見てもらって当然だ、という態度が、謙虚な表面から透けて見えたのでちょっと待てよと思った
  • このときの状況は以下のとおり
    • Sさんの2回目の発表練習中、出来がよくなかった2名のM2は自分の発表資料を直していた
    • PineTreeさんがSさんの発表練習に付き合うとPineTreeさんは件の2名の発表練習に付き合ってあげられない
    • PineTreeさんの視点からみれば、PineTreeさんが手助けすべき優先順位は件の2名の方にある

状況と物事が起きた事柄を時系列にまとめるとこういう感じになるみたい。ここまでまとめて、やっとエントリー名の「頭のいい人の、無邪気さと傲慢さのあいだ」の意味がわかった。発表練習を申し出たかどうかはこの話の本質的なところではなく、Sさんの日ごろの振る舞いにネガティブな思いを貯めていたところにちょうど着火したというように見える。

私は、PineTreeさんは良い人だと思う。理由は以下のとおり

  • 発表練習計画も立てられないM2の発表練習をちゃんと見てあげていた
  • 上記のエントリーを書けるほどに後輩の研究進捗状況の把握をしてあげていた
  • Sさんの振る舞いはSさんにとってよくないと思っている(つまり、Sさんの将来を気にかけている。これは話してきましたというエントリーでも分かる)

以下、この話から私が考えたことを書いてみる。

まず、何らかの才能が豊かであったとしても、それは社会的経験を代替しないということをあらためて覚えておくようにしなければならない。特に人間関係に由来する振る舞いは、経験がモノをいうので、それを経験していないならば年齢が何歳であっても対処するのは難しいということを理解しないといけないと思う。今回のケースでSさんがPineTreeさんの求めるような行動をとるのは私の考えでは無理。Sさんの視点からしてみたら、目の前に出される課題や問題を必死にがんばっただけだろう。特別研究員の採択やら論文採択やらは、やったことに対して他人が下した評価なので、Sさんがどうにかしたことじゃない。もちろん、一歩下がって大きな観点でこの事柄をとらえなおしてみると、Sさんに課題を与えて、特別研究員に応募させて、論文書かせて、それらをサポートした人々の支援が目に入ってくる。でも、この視点は、一度、支援者としての立場をとらないと見えてこない視点だと思う。Sさんが他人の支援をしたことがあるのに、これがわからないのは問題だけど、他人を支援したことがないならば自分で気づくのは無理なのでしょうがない。

でも、この視点は複数人で協力して何かを進めていくときに重要な視点であるのでそれを教えようとしているPineTreeさんは偉い。

次に、他人への指導は自分自身の能力を高める良いチャンスではあるが、どのくらい指導するかは加減が重要であるということ。やりすぎても自分が疲れるのに、当の被指導者からは感謝はされない。むしろ、嫌われる。「馬を川辺につれていくことはできるが、水を飲ますことはできない」のことわざは真実。喉の渇きを感じさせないといけない。

一方で、指導をしなさ過ぎても自分が学ぶ機会を失うことになるのでもったいない。日本の大学院教育では、研究技術の伝承は上級者から下級者への口伝になりやすいと思う(研究に必要な技術をコースワークとして教えている大学院は少ないと思う)。そのような状態では、上級者の教えを自分の言葉で言い直す機会がとても重要である。

コースワークになっているということは標準化されているということだから、ある程度、誰にでも分かりやすくなっていると考えて良い。一方で、口伝は、口伝の伝承者の理解の方法に制限を受けるため、必ずしも口伝の継承者にとって分かりやすいとは限らない。教育×破壊的イノベーション 教育現場を抜本的に変革するによれば、人はそれぞれ知能の型が異なるため、学び方が違う(この本では8種類の知能の型が紹介されている)。このため、自分の型に合っていない口伝は理解しづらい。一方で、人に何かを教えるときには自分の型にそって教えるため、どうしても、他人から受けた教えを自分の型にはめなおすことが必要となる(よく言う、自分の言葉で説明できるようになるというのがこれにあたると思う)。このため、他人に教えることを通じて自分が受けた指導を理解できる(逆に言えば、他人に教えられないことは自分で理解できていないと考えてよい)。

なので、教えたがりの人(私はこちらのタイプ)は、「ちょっと、足りないかな?」というぐらいで指導を止め、相手から要求してくるのを待つほうが良いと思う。一方で、教えたくない人は、自分のためだと思って下級生の指導にチャレンジした方が良いと思う。

次に、研究室で日々発生する研究外の作業を研究室のメンバー全員が不平不満を持たないように平等に分担させるにはどうすれば良いかという話。今回、Sさんが研究室の人に好かれていない最大の理由は、Sさんが研究外の作業をしなかったという点にあると思う。この背景にあると思われるのは、研究外の作業を研究室の構成員に平等に分担する仕組みの欠如だ。多分、現在は作業の存在に気づいた人がその作業を担当することになってしまっているのではないかと思う。PineTreeさんのエントリーを見る限り、Sさんは受信感度(空気読み能力)が高くなさそう。Sさんは作業の存在自体に気が付かず、その結果として、作業を行わず、自分の研究が進められて、その結果評価も高くなったのではないかと推測。

仮にこの推測が正しいとしたら、Sさんにいろいろなことを伝えたとしても、Sさんの受信感度は急激には上昇しないので、結局、Sさんが研究外の作業をせず、受信感度の高い誰かが研究室外の作業を専任してしまうという事態に陥りそう。

一番良いのは、研究外の作業を研究室のメンバーが納得できるルールの下で公平に負担するということ。でも、研究外の作業は明確な形で発生するものだけではないので(みんながモヤモヤと不満に思っていることを解決するというような作業もありえる)、気づいた人がルールに従い研究室のメンバーにその作業を投げる必要がある。そうしないと、受信感度が低い人は気づかないのでいつまでたっても研究外の作業をやらないということが起こる。(参考:空気が読める人の精神防衛法

最期に、私がSさんに欠けていると思うのは、自分が他人からどう見えるかという視点だと思う。己を強く信じて、他人からどう見えようがどんな困難が立ちはだかろうが意に介さないという人を除き、自分が他人からどう見えるのかというのは出来る限り正確に把握しておくべき事柄だと思う。ただし、把握した結果、自分の行動を変えるかどうかは別の話。

Sさんが自分のことをどう認識していようが、「来年以降特別研究員になれる。しかも、論文も出ている」状況にあるため、他の人はSさんのことを「頭が良い」と見る。なので、他の人ならばどうってことないことでも、Sさんが行えば「あの人は自分の頭のよさを誇って・・・」というように見られる。

ちなみにこれはSさんだけの話ではなく、何らかの特徴、肩書きや役割を持つ人に共通した話。自分の身に降りかかるときはいやだなぁと思うけど、自分が他人を理解するときに「あの人は***だから、〜だな」と考えることもあるのでしょうがない話。