土台と応用のバランス

もっと学校で、テクニックを教えてくれればよかったのにとそれに続くエントリー群が面白い。ブックマークの反応も面白い はてなブックマーク:もっと学校で、テクニックを教えてくれればよかったのに

元のエントリーのポイントはまとめると以下の点になるかと。

  1. 何の基礎知識や基礎技術を提示してくれないで自由にやれといわれてもどうして良いのかわからないことがある
  2. 自由に自分の感じたままに書け(描け)といわれたのに、書いた(描いた)ものに対して得点付けされる(自分の感じたことと他人の感じたことに優劣があるわけないのに優劣をつけられる)
  3. 技術指導である程度まで能力が変わるものは、あらかじめ教えて欲しい

1点目については、納得。ただし教育目的によってはわざと分からない状態を経験して欲しいというのもあるので一概に悪いこととはいえないと思う。「体験→疑問→理論学習」というのが一番学ぶ意欲を増す流れだと思う。

2点目については、先生がフェアじゃない。典型的に自分の感じたままを表に出すことを禁止することを学ばせる流れ。

  • 親:「怒らないから言ってごらん」
  • 子:「本当に怒らない?」
  • 親:「本当だよ。正直に言ったら怒らないよ。」
  • 子:「あのね。***しちゃったの」
  • 親:「あんたはなんてことするの!あんなに***と言っていたのに。」
  • 子:「うわーん。怒らないって言ったのに〜」

この流れ。これを繰り返すと子どもは本当のことを言わなくなる。しっぽのブログ:技術を教えてくれた先生で紹介されている先生は、私の理解からすれば技術を教えたことがすごいのではなく、評価基準をあらかじめ公開し、それに則って評価しようとした点がすごいと思う。技術はその評価基準を伸ばす方向で教えられるので児童も納得して技術習得に努められるのだと思う。

3点目の技術指導については、基本的には疑問をもって尋ねてきた子にだけ教えれば良いというのが私の考え。2点目の評価の点が改善されれば、不当と思われる(フェアでない)評価によって、傷つく子が減ると思うので、後は発達の具合や興味の有無に応じて技術を伝授すれば良いと思う。また、別の観点から言えば、常識が分からないというエントリーにあるとおり、現代社会で常識とされていることや後から考えれば覚えておくべきことというのは大量にあるし、それはどんどん移り変わっていくのだから何の技術を教えるべきなのかについては普遍的で基本的なものに押さえておくべき。

ただし、自分がどうしてそう思ったのかを伝えるための文章の書き方や説明の仕方については別。高コンテキスト文化の日本文化だからこそ、低コンテキスト文化の文章の書き方や説明の仕方について小学校から学ぶべき。 高コンテキスト文化の作法は日常生活で十分身につく。具体的には、発声練習:外国語で発想するための日本語レッスンをご参照のこと。

もっと学校で、テクニックを教えてくれればよかったのにに反応しているエントリーの内容やブックマークのコメントは大きく分けると

  • 守(教えられた方法を身につける)、破(教えられた方法を自分なりに変更)、離(最初に教えられた方法から自由になる)の精神に基づき、土台となる技術・型・知識を教えるべき
  • 技術は後に身につければよく、小学校ぐらいのときは型にはまらず創造性や考える力を養うべき

の二つに分けられると思う。

どちらも正しいと思う。もっと、学校でテクニックを教えてみた教師の憂鬱で述べられているようにバランスが大事だと思う。ただ、創造性や考える力を養うためには、たたき台(スタートライン)と完成図が必要だと思うのでそれは与えてあげたほうが良いと思う。

これ、美術とかに限った話じゃなく、「発想の土台となる基礎知識をどれぐらい教えるか」も同じ話だと思うんだ。例えば「理科で草花の名前を単純に覚えさせるの、どうするよ。」みたいな。つまり「知識と経験の比率」だね。詰め込み教育は知識重視、ゆとり教育は問題解決学習や応用力を重視している…だから経験重視だ。

この文だと分かりにくいのだが、この友人は絵がコンクールに通らなかったことや方針そのものに落ち込んでる訳じゃないと思う。たぶん、さじ加減が強力すぎたんじゃないか、詰め込み偏重になってないか、てことで考えてたんじゃないかなと思う。元増田みたいな「もっと基礎を」という意見が出てきたり、友人みたいな悩みを持つ現場があったりするのは、ゆとり教育見直しという現状をよく表してるんじゃないかと思う。

えっと、だから言いたいこととしては、「ハンドルは切られ始めてるよ!」「でもどれだけ切ればいいか現場も(たぶん)文科省も悩んでるよ!」「だからあんまり現場を十把一絡げでいじめないでね!」「文科省任せにしないでいろんな意見が出た方が良い気がするから、ゆっくり議論していってね!!!」…かな?

上記の話は、以前書いたエントリー自然な疑問に関する3部作にこの話は通ずるような気がする。

また、余談だけれども、NBOnline:超競争社会・中国のビジネスパーソン:子供の教育にかける費用や情熱が違うを読んで、常識が分からないの遠因が分かったような気がする。

でも実際は、働きながら子育てをするのは大変です。フルタイムで働くとなると、子供がいない人と比べて時間の融通も融通が利きません。ではどうするのでしょうか。
例えば、職場の人間と夜の飲み会が入ったとします。そうなった場合でも、中国の女性は、子供が小学低学年であってもその飲み会に堂々と子供を同行させます。日本の職場では考えられませんね。
〜中略〜
確かに、中国では親が見栄を張らずに朝から晩まで一生懸命に働いている姿を子供に見せます。子供はその姿を見て、仕事への関心を高めます。
日本に留学している中国の大学生に「将来、何になりたいか」という質問をすると、ほとんどの学生が自分の就きたい職業をはっきり答えます。働くことに対する意識の低い日本のフリーターのことを「信じられない」と軽蔑する学生も多くいます。この考えの違いは、育ってきた家庭環境が違うからでしょう。
日本では子供を仕事場に同行させるのはマナー違反と見られますが、必死で働いている中国人女性は、祖父母に子供を預けられない場合や子供の夏休み中などは、マナーよりも子供と一緒にいることを優先します。それを容認する社会もできています。
また、人前でも子供を大声で叱ります。だからなのか、他人の子であっても、周りにいる人が全員で育てていくという考えが普通になっています。

どういうことかというと、親が社会とコミュニケート(仕事、社会活動など)している場面を見る機会が少ないので結果としてそれを知らずに済んだ(それを学ぶ機会がなかった)。知らなければ疑問なんて浮かばず、学ぶ意欲が湧くはずない。