私に判断させてくれない人たち

はてなブックマークを見てすぐに「これは共産党、あるいは、労働組合の人たちに対する批判のエントリだな」と思っちゃった。以下、その理由は書きますが、これは上記エントリーの内容とは全くの別物です。

職場の労働組合、あるいは共産党の方々の主張は多くの場合納得できることが多い。我々が動かない代わりに貴重な時間とコストを払って、労働者の権利や市民生活をつつがなくおくるための権利を守ってくれているのは本当にありがたい。

だけど、常に気に入らないというか逆にうんざりさせられる点がある。この一点においてどうしても組合に入ろうとか、共産党を支持しようとか思えない。それは彼らがいつも「問題 VS. 私たち」という構図をとって、「私」に考えさせてくれない点だ。

たとえば、憲法第九条の改正問題について、彼らは「第九条は守られなければいけません。我々は憲法改悪に断固反対していかなければなりません」というような話をする。「第九条は守られなければいけません。」という主張を彼らはする。彼らがどういう主張をしようと問題ない。しかし、「我々は憲法改悪に断固反対していかなければなりません」という主張はちょっと困る。なぜならば、私はまだ彼らの主張に対して検討しておらず、私の主張を述べていない。にもかかわらず彼らは「我々」という言葉を使う。

彼らが「我々」という言葉を使うとき、私はまだ主張を述べていないのだから、当然のごとく彼らの言う「我々」には、私は入っていない(入れない)。だから、彼らの言葉「第九条は守られなければいけません。我々は憲法改悪に断固反対していかなければなりません」が私にとっては次のように聞こえる「第九条は守られなければいけないと彼らは思っている彼らは憲法改悪に断固反対していかなければならないと考えている

思いっきり他人事にしか受け取れない。自意識過剰かもしれないが、自分の意見を他人に勝手に斟酌されて決め付けられることは非常に頭にくる。自分の判断能力が認められておらず、無視されているように感じるからだ。だから、たまに労組や共産党の人たちは、私たちを愚かな人たちの集まりであると見下しているのではないかと感じるときがある。

頭では、彼らが価値があることに我々の代わりに取り組んでくれており、これは我々にとって利益があることだとは理解できるのだけれども、非常に率直にいえば、彼らの話し方、表現の仕方が気に食わない。

どんなに良い研究成果でも、他人に理解してもらい、社会(あるいはその分野)に周知してもらえなければ、科学の歴史にとって何の価値もない。研究は社会に還元して始めて意味がでてくるのである。だから、論文は分かりやすいように書こうと努力するし、論文の査読者も読みにくい論文には「読みにくい」という理由だけで不採択してくる。研究者はこの事実を最初に叩き込まれ、以後、第二の天性とすべく努力していく。そういう教育を受けた身からしてみると、もう少し表現に気を使っても良いのではないかという気がしてならない。

何か解決すべき問題があるとき、いきなり「問題 VS. 私たち」の構図に持っていくのではなく、「問題 VS 私」、そして「問題 VS あなた」を提示してもらって、こちら側にも自由意志を担保してくれた上で「問題 VS 私とあなた」という形にしてもらえるともっと素直に協力したいと思えるようになるのになと思う。

アンカテさんすみません。タイトルだけお借りして後はぜんぜん別のことを語ってしまいました。