どこまで知っているべきか?どこまで伝えるべきか?

ゲンダイネット:安倍首相の国会答弁官僚100人動員
の記事に対する反論というか、気づきのための指摘というかのエントリーbewaad institute@kasumigaseki:質問レクの人数を読んで思った。

webmasterの経験でも、わざわざ人数を数えたりはしないので目計算ですが、100人程度の規模の質問レクはありました。どういう状況においてそのような規模のレクになるかといえば、さまざまなテーマについての質問をする場合、ということになります。先ほど申し上げたように各担当が接触しますから、テーマが増えればその数に比例して担当者は増えるのは必然です。

#なんでわざわざ担当が行くかといえば、議員の質問内容がよくわからないような場合に、その場で聞くべきことを聞いて趣旨や関心を確認するのは、担当でないと難しいからです。

これは、霞ヶ関の方々にとって常識の話の様子。だけど、高橋参議院議員には常識ではなかった(あるいは知っていて非難しているのか)。さらには、ゲンダイの記者の方にとっても常識でない(あるいは知っていて非難しているのか)。私にとっては、当然常識でない。今回、初めて知った。国会議員であれば、この常識を自ら学んで知るべきであると思うし、記者の方も自分の意見を述べる前に理由を探るのがその職務として当然であると思う。

しかしながら、国会議員は必ずしも官僚出身者ではないし、国会と関係の無い分野からとびこんでくるのかもしれない。新聞記者も同様。そう考えるとこの高橋参議院議員や記者の人の反応もしょうがないかもしれないなぁと思わないでもない。

翻って大学教員の常識を考える。私はまだ2年目で常識と呼べるほどいろいろ学んでいるわけでもないけれども、それでも学生時代の大学教員像と中に入ってみたときの実状の隔たりには驚くことばかりだった。学生が見ている大学教員の姿はほんの一部でしかない。だから、大学の外の人に大学教員に関しての正確な情報や常識というのは伝わっているわけない。

博士取得者に関する情報も同じように博士取得者と触れ合ったことない人達に伝わるわけない。

質問レクの件では、質問レクに官僚の方々が集まることには必然性があり、それは国を動かすために不可欠な行為である。だけど、これは国会の常識で、世間一般の常識でないし、常識である必要がない。日々の生活のために覚える事柄はたくさんあるし、日々の糧を得るための仕事に関して覚えること、知るべきことは大量にある。そんな、大量の覚えるべきこと、知るべきことを持っている世間一般の人々は、自分の守備範囲外の事柄を知る労力を払いたくないだろうと思われるので、自分の分野の常識を世間の人々に知ってもらいたければ、こちらから伝えなければならない。

けれども、常識というのは血肉となっているから常識であって、血肉と化しているものが他人にとって異質であるとは本人にとって気がつくのは難しい。だから、何を伝えるべきなのかの境目が分からず、正直しんどい。場合によってはしんどいどころか、何が伝えるべきものなのかわからないので伝えられない。なので、この「自分の分野の常識が外の人々にとって異質なことに気がついていないので、外の人に伝えられない」ということに対して非難するのはちょっとためらいがある。

じゃあ、どうすれば良いのか?完璧な解決法ではないけれどもとりあえず相手に質問するという文化を作り上げるしかないだろうと思う。
何か疑問、あるいは不満に思ったらとりあえずその疑問や不満を相手に伝えて確認してみるという文化。

狭い範囲の話を世界に広げて恐縮だけれども、私が見聞きしてきた範囲では質問をするという行為はネガティブな行為に見られているように思う。「質問する = 質問者に知識が足りない」。あるいは「質問される = 自分に欠陥があると問われている」というような認識の仕方がされているように思われてしょうがない。この認識の下では、質問ができない。質問がないので想像で情報の欠落を埋めなくてはいけない。質問と質問者、質問内容と被質問者の人間性をきっちりと分けて、ただの情報交換の手段として質問と回答が気軽に(気分として気軽)にできるような文化、雰囲気、心構えを作る必要がある。

だけど、文化なんてそう簡単に作れる分けないから、とりあえず自分の心構えと普段の行動として「質問気軽に&質問裏読みしない運動」を推進する。