Love: 山形浩生

素敵だ。

インタラクティヴ読書ノート別館の別館:2005-11-11のコメント欄

内藤さんの発想は結局はお上頼みです。内藤版の制度は、法律とかなんとかでお上が勝手に作って衆生に押しつけるものです。そしてお上が制度を変えてくださるまで、自分はなにやらあれこれ口だけ不満を述べ、身勝手な妄想をふりまいて、手をこまねいておればよいという低級な考え方です。

ぼくにとって制度とはそういうものではありません。制度とは、結局のところ、その社会の構成員が自主的に(いやいやかもしれなくても)やることの総和です。法律なんて、そのごくごく一部でしかありません。ですから制度を変えるというのは、ぼくにとってはまず自分からその行動を起こすことです。現在の著作権制度やソフトウェアのあり方について疑問だと思えば、ぼくはそれを少しでもよくすると思われる活動をしますし、またそれに関連した団体に寄付をして、現状を変える努力をします。途上国援助についても、足りないと思っているので、そこそこの寄与を自分の評価に基づき私的に行います。その上で、言論活動を通じて制度改変の必要性をも訴えます。それに賛同して自主的にやる人が増えれば、制度というのは変わるんです。既得権益がにらみ合いになったり、手詰まりに陥っているときにのみ、お上頼みの強制的なてこ入れはあり得る。またマクロ経済政策のような、個人では何ともならない部分もある。でも、個人でできる部分もあるのです。むしろそのほうが遙かに大きいのです。Put your money where your mouth is というのはぼくの大きな行動規範の一つです。なにやら法律によって社会の全員に何かをやらせるのがよいことなら、外部性とか合成の誤謬とかはありますが、それをぼく一人がやることだってよいことなのです。

したがいまして「制度が変わらないことを前提に自分がどうするか」という発想自体がぼくにとっては口先だけの人間の逃げ口上でしかありません。制度が変わることを前提として、変えるために自分がどうするか、というのがぼくの論理ではあります。教育機会が平等化されなら税金40%とられていいというなら、所得の40%(のいまの税金との差額)を自主的に教育機会の少ない人にあげてはいかがでしょうか。多くの人が内藤さんの活動および議論に感じ入ってそのひそみに倣えば、そのとき制度はすでに変わってるんです。制度というのは、ぼくたちの内部にあるんです。ぼくが変わることで、内藤さんが変わることで、制度も変わるんです。


(もちろん、すべての行動が制度改変に直結するわけではありませし、自分で何かをするのがすべてよいとは限らないのも当然のことです。バカで無意味ではた迷惑な行動は当然あります。だからその行動自体本当に有用かという検証は要るのですが、それはまた別の話。)


上記コメント欄の大学院話。大学院修了者の就職先がない話に付いてのコメント。

大学院は、少なくとも失業するまでのバッファを増やす役割は果たしています。大学院が増えなければ、そこに行った人たちは就職できたんでしょうか。そんなわけないでしょ。]]

基本的には就職難を引き起こしている経済状況が問題であり、院の増設はこの状況下では景気回復までのバッファ増大として役にたつものです。それがなければ、院にも行けなかった人はますますささくれるだけです。