永遠に続く今日


このエントリーに出てくる「無時間的な人生」というフレーズで中学生のころを思い出しました。

中学生の2年生ぐらいに、ある日、登校中に友達と話なが突然「明日も、あさっても、1ヵ月後もこの先ずーっと、今日と同じ日が続いていくんだろうな」と考え、ぞっとするほどのやりきれなさを覚えた記憶があります。今日と何も代わらない明日。永遠に続く今日。最悪の恐怖です。

今にして思えば、今日と変わらない明日を維持するためには様々な変化要因と戦う必要がある難事であるとわかるのですが、
当時は、親と社会の庇護の下、変わらない今日を当たり前のものとして受け取っていたのです。

内田先生のエントリーでは、

「無時間的な人生」というのは論理矛盾だが、ひとつだけそれを具体化できる契機が存在する。
自殺である。
自殺というのは「今の私」という無時間的存在者が、「今の私ならざるもの」へと私を拉致し去るかもしれない時間を支配し返すための唯一の方法である。
とありますが、当時の私が思ったのは
「もし、今日が永遠に続くのならば、今日が今すぐ終わってもかまわないな」
という感覚でした。今が変わらないのであれば、今、人生が終わっても10年後に終わっても同じである。そう思ったのです。

当時は、今日が続かないなんて全く思いませんでした。朝起きて、朝練にいつもと同じ友達と行って、勉強して、部活して、家帰って寝る。そのサイクルが変わることはないと思っていました。でも、そうじゃない。明日は今日じゃない。

あの、中学2年生の良く晴れた朝の通学路が私の27年の人生でもっとも自殺に近づいたときだと思います。何の変哲もない、
ありふれた朝のありふれた行動が私を最も自殺に近づけました。何も辛いことも、何も悩んでいることもなかったのに。あれは、なんだったんだろう。