読書メモ:旅する教会――再洗礼派と宗教改革

ミュンスター再洗礼派研究日誌のsaisenreihaさんこと、永本さんが共著の「旅する教会――再洗礼派と宗教改革」を読んだ。

旅する教会――再洗礼派と宗教改革

旅する教会――再洗礼派と宗教改革

この本は以下の経緯でできたとのことなので、ある統一の視点からの再洗礼派の歴史を説明するというものではなかった。また、専門書なので前提として宗教改革前後のヨーロッパの知識がないとちょっとわからないことが多かった。ただの歴史好きの私としては難易度高めの本だった。特に第2部はいろいろなエピソードが並列に並んでいる印象だった。

この本は、新教出版社の月刊誌「福音と世界」2013年4月号から2015年3月号まで連載された論考を元にしている。
(「あとがき」p. 286より)

一方で、以下の点については納得できた。

~前略~この時代には、聖書を読んだり、説教を聞いて、正しい信仰はどうあるべきかを考え、実践しようとした人が次々と現れた。彼らは、喧々諤々の議論を交わし、場合によっては敵に件を振るった。再洗礼派も、自分たちなりに宗教改革をしようとしていた人たちの一員だった。

とはいえ、再洗礼派という一つの集団があったわけではない。洗礼を受ける時に信仰が必要だと考えることは共通していても、それ以外の教えや信仰生活の仕方は教会によって様々だった。住む場所も色々で、頻繁に離合集散や移住をした。彼らを取り巻く環境も、場所や時代で千差万別だ。~後略~
(「あとがき」p. 284より)

感想をつらつらと。

第1部第1章の冒頭のルータの言葉に「さすが、ルター。教科書載るだけはある」と感銘を受けた。まず、再洗礼派の説明。

「再洗礼派」とは、幼児洗礼を認めず、成人が自らの自由意思に基づき受ける信仰洗礼のみを認める人々を指す呼び名だ。再洗礼派は、まだ分別がなく信仰を自覚できない幼児への洗礼は無効であると見なし、洗礼が効力を得るためには洗礼を受ける際に受洗者が悔い改めを行い、キリストに従って生きると決意することが必要だと考えた。
(「プロローグ」の「再洗礼派」の項 p. 10より)

再洗礼派の考えは説得力がある。確かにそのとおりとうなづかせる理屈でこれを覆すことはできなさそうなのだけど、ルターは以下のように穴をついてくる。

彼ら(再洗礼派)は、「信じて洗礼を受ける者は救われる」という聖書の記述に基づき、誰にも洗礼を授けてはならない、その前に信じなければならないと考えている。…そのような考えに従うならば、受洗者が信じていると確実にわかるより前に洗礼を授けてはならないことになるが、どのようにしてそのようなことがわかるのか。信じているのか否か、人々の心の中がみえるというならば、彼らは神にでもなったとでもいうのか。

さすがルターさん。お見事な反論。もちろん、極論なんだけど、説得力はある。

第3部「近代化する社会を生きる再洗礼派」は興味深かった。1つはアーミッシュは再洗礼派の一派であるということ。もう一つは再洗礼派は近代になってもガンガン移住していたということ。

以上、メモまで。

関連エントリー

永本さんによる日本語の再洗礼派文献の紹介
d.hatena.ne.jp

Wikidataに再洗礼派のドイツ語表記がないのは残念。
www.wikidata.org