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未知のことに取り組むときにこそ自分の中の価値判断基準が必要だと思う

id:chijanさんにIDコールされたので。

chijan.hatenablog.jp

は、以下のエントリーへの疑問というか感想。
next49.hatenadiary.jp

自分の基準が他人に受け入れられないのは普通

データ可視化の研究をしていました。しかしそこでは何を以て「可視」化したと言えるのかが不明です。私が可視化したと思ってもボスからすれば論外ということはしばしばありました。見えやすさについては定量的な評価関数がないのです。私なりに可視化の基準はありました。そういう意味では価値の判断基準は自己の内にあったはずです。しかし可視化であるがゆえ人に見せるものである以上、外に判断基準がないといけなかった。何を以て可視化とするのか自分の中の基準が壊れかかっていた。自己の判断ができない状況が、きっと楽しくなかったのだろうと思います。

一方、今の研究は応用数学。とても楽しく研究しています。何しろ数学を使うので、数学的に正しくなければ間違い、正しければ正しいと極めて明確に判断できるのです。これは楽しい。誰も解いていない問題なので正解も模範解答も当然不明。しかし数学の道を外れれば誤りであるとわかる。先行研究と比べて自分の方が有用な結果であればマイルストーン達成。次の石へ向かう。

自分の中の基準があり、それに基づいて自分なりの可視化を主張していたのですから、私が上のエントリーで嘆いていたケースとは異なっていると思います。他者が納得するための基準の設定のところに問題があったのだと思います。自分の基準に基づいて何かするのと、その何かしたことが他人に受け入れられるかどうかは別の話だと思います。ですので、私が件のエントリーで嘆いていた話の次のステップのところで苦しまれたのだと思います。

精神的背骨があるのか?

以下の行から始まる話は、結局「精神的背骨」という比喩に相当するものがあるのかという話ですが、件のエントリーでは自分で咀嚼した価値判断基準を「精神的背骨」と言っています。エントリー前半のエピソードと合わせると、id:chijanさんは「みんなが納得する評価基準」=「件のエントリーで言っている『自分の中にある価値の判断基準』=『精神的背骨』」という解釈をされているので、私の主張にひっかかりを覚えているのではないかと思います。

さて、ここまで書いて一つ疑問が生じました。数学を価値判断の基準とするのは、自分の精神の背骨になるのだろうか、と。

おわりに

外に正解がある事柄についてはそれを使って判断をくだせばよいので、知らないこと、正解がわからないことに取り組むときこそ自分の中の価値判断基準が必要だと思っています。