自分と違うモノ・コトに対して違和感を覚えるのは当たり前

Togetter:生徒から「片腕の人の授業は、気持ち悪いので聞きたくない」との声が出たとのこと、職場から連絡があった。その生徒より、その発言を平然と伝えてくる職場の方に腹が立った。にまとめられているつぶやきの中に「子供をこんな考えを持つ子に育てたくない」というコメントがあった。私もそう思ったのだけど、やり方によってはうまくない結果もでちゃうかなと思って、自分の考えをまとめてみる。

口からでる言葉と頭・心で感じていることは必ずしも一致していない

このブログでも、大学で学生を指導するときにも「自分の言いたい事が相手に誤解なく伝わるように適切な言葉を使え!」と言い続けている。でも、これは科学の場を含むビジネスの場でのコミュニケーションを想定した話であって、私的な場でのやりとりは話は別。自分が何を考えているのか、何を感じているのかすら自分でわかっていない場合もある。

今も流行っているかどうかわからないけど、一時期、若者言葉として「ヤバい」が非常に使われているときがあった。感情が動いたときにその驚きを他人に伝えるために「ヤバい」という言葉を使っている。使い勝手が良い言葉なのか、なんにでも使われて、なんでも「ヤバい」ことになってしまっていた。

儀礼的・反射的に「ヤバい」という言葉を使っている場合もあっただろうけど、基本的には自分が驚いたことを・すごいと感じていることを相手に伝えたいときに「ヤバい」という言葉を使っているわけで、別にふざけているわけじゃない。語彙が足りないのと、語彙の選択により生じるコストを軽減しているだけ。

で、元の話に戻る。

生徒から「片腕の人の授業は、気持ち悪いので聞きたくない」との声が出たとのこと、職場から連絡があった。その生徒より、その発言を平然と伝えてくる職場の方に腹が立った。
上述のTogetterまとめより)

上の話を受けての「子供をこんな考えを持つ子に育てたくない」になるわけなのだけど、ここで子供が「気持ち悪いので」と言った時にそれを辞書通りの意味で解釈してよいのかどうかが、そもそも一つ気を付けなければいけない点だと思う。子供が何に対して「気持ち悪い」と思ったのか、その「気持ち悪い」という言葉が選択された経緯は何かをちゃんと聞かないとまずいことになると思う

思うこと自体を禁じられると反発が生じる

パッと見でわかる障害持ちの方とそうじゃない人を眺めるとき、障害持ちの方の方をそうでない人よりも長く見てしまう傾向が私にはある。パッと見でわかる障害を持っていない人は背景として流してしまうのだけど、障害を持っている方は背景から飛び出てくるので、認識するまで注視してしまう。で、認識した後は背景として流す。尖ったファッションしている人も似たように注視してしまう。

基本的に慣れの問題なのだけど、自分や普段見るものと違うものに対する違和感はどうしたって覚えてしまう。これは私にとっては不随意なものなので制御しようとしても制御できない。言い換えれば、私にとって自然な頭・心の働きになっているもの。

自然な頭・心の働きの下で考える・感じること自体を「ダメなもの」とされても、それを止めるのは難しいと思う。なので、私は考えること・感じること自体を「ダメなもの」として禁止しても良くないと思っている。その考えで以下のようなエントリーを書いたこともある。

誰だって、自分に非がないのに、あるいは自分が何もしていないのに、何かしらの不利益を得たならば不快感を覚える。ましてや、それが取り返しのつかないレベルのものならば当然の話。

3月11日の東日本大震災福島第一原発事故によって、被害や精神的苦痛を受けた人が、「何の咎もないのに、こんな理不尽な仕打ちをうけており、自分で自分の家族と自分自身を守らなければならない」ということに対して、激しい怒りを覚えるのは当然の話であり、これを否定する人とはたぶんお話できない。

私は南関東に住んでおり、ほとんど被害をうけなかった(停電と節電ぐらい)。なので、津波の被害や地震による建物およびライフラインの破壊、原発事故による生活基盤の破壊/損害を受けた人の気持ちを想像することすらできない。そんな、停電と節電ぐらいの私でも「ふざんけんな」と思うのだから、より被害が大きかった人が怒りを覚えるのは当然のこと。

ましてや、急性でない慢性の放射線被害は確率的な話。私たち人間の多くは確率的な事象の認識がうまくないというのは、心理学や行動経済学で指摘されている点。自分が望んでもいない、引き金を引いてもいない事柄で、強制的に不得意な確率的事象を検討しなければならない状況自体に腹がたって当然。

だから、「疫学的・科学的見地から、原発周辺以外の地域の人は、放射能被害は精神の均衡を崩すほど心配することではないよ」という言い方は、上の正当な怒りを無視(あるいは否定)するように聞こえるので、受け入れがたいのだと思う。
いまさらながら「放射脳」という言葉は好かないより)

たとえば、「かわいい女性の絵を好ましいと思う」こと自体について批判された場合、異性愛者の男性はどうして「かわいい女性の絵を好ましいと思う」のかを突き詰めていくと、結局のところ異性愛者の男性であるからという自分ではどうにもできない根源的な理由に行き当たる。批判に対応するためには自分が異性愛者の男性であるということを止めなければいけないので、その批判には対応できなくなる。最初に次は情報処理学会学会誌に関してポリティカルコレクトな表紙かを語ろうを書いた理由は、「デザインの利用に対する批判」だけでなく、「デザインを好むことへの批判」が大量に含まれていると感じたから。Togetter:人工知能学会の表紙は女性蔑視?のコメント欄の多くの過剰に見える反発も「デザインを好むことへの批判」に対する反発なのだと思う。

「デザインを好むことへの批判」を軸にして行われる過激な言説のやりとりは、「無意識の差別」を認識して、そういう振る舞いをとらないようにしようという多くの人が納得する合意点を意味ないものにしているように見えるので、この話では自分は何について議論しているのかをぜひ一度整理してほしい。

人工知能学会誌の表紙の話はドレスコードの話と同じより)

政治的に正しくないからというお題目だけで考えること・思うことは「ダメなこと」としてしまうと以下のようなことが起こると思う。

なぜトランプは「ここまで極端な発言」を平気で口にするのでしょうか?

2つあります。まず1つ目は、先ほど申し上げたように、こうした発言については、一部のアメリカ人は「言いたいけど、言ってはいけない」という自制をしているわけです。確かにそれが「政治的正しさ」だからです。ですが、「ホンネとしては言ってみたい」という感覚を持っている人からすれば、「本当に口にしてしまう」トランプはヒーローになってしまうのです。

2つ目には、こうした発言に関しては例えばメディアは反発していますし、おそらくは多くの政治家から「それはマズイだろう」という発言が出ると思います。ですが、そうした「トランプ批判コメント」を発すると、保守層に向けては、その人は、あるいはそのメディアは、「イスラム急進主義者に甘い」とか「テロの危険に対して鈍感」というイメージを植え付けることができるのです。

過去にはメキシコ系移民を巡る論戦で、例えばジェブ・ブッシュの勢いを潰すなど、同じ「やり口」で成功してきたトランプです。今回もそうした計算でやっているのだと思います。
「イスラム教徒の入国禁止」を提案、どこまでも調子に乗るトランプより)

違和感を覚えた後の行動について教育すべき

以下のコメントの人は上述のことを踏まえた上で、「その発言を平然と伝えてくる職場の方に腹が立った」と言っているのだと思う。私も職場の方がダメだと思う。

生徒から「片腕の人の授業は、気持ち悪いので聞きたくない」との声が出たとのこと、職場から連絡があった。その生徒より、その発言を平然と伝えてくる職場の方に腹が立った。
上述のTogetterまとめより)

理想論だけれども、「気持ち悪い」という言葉がでるに至った経緯を相手の目線で聴いて、その上でそう考えたこと自体は受け止めてあげて、ただし、これこれしかじかの理由でその考え・感情に従ってみんなが行動すると社会全体が生きづらくなることを説明した上で、その違和感をうまく処理する方法を一緒に考えてあげる必要があると思う。

できるかどうかは別として。とりあえずの私の現時点での考えとして上のとおり。