やまとことばと漢字かな交じり表現

関口涼子 / 翻訳家、作家:「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題に対するコメント図書館発、キュレーション行き:「許す」と「赦す」は同じ意味ですよがおもしろい。

1つ目の記事は今回の翻訳としては「許す」では誤解を招き「赦す」 と書くべきだと主張している。

読売新聞の記事は、「Tout est pardonné」を「すべては許される」と訳し、何でもありだ、という、言論の自由(というか「勝手」)を示したものだとしているが、これはまったく逆の意味だ。

「すべてが許される」であれば、フランス語ではTout est permis になるだろう。「許可」を意味するPermissionから来ているPermisと異なり、Pardonné は宗教の罪の「赦し」に由来する、もっと重い言葉だ。そして、permisであれば、現在から未来に及ぶ行為を許可することを指すが、pardonnéは、過去に為された過ちを赦すことを意味する。

〜中略〜

表紙の絵を描いたルスは、襲撃事件が政治的に利用されることに違和感を表明し、11日の集会は「シャルリー・エブド」の精神とは正反対だ、と批判している。もう一人の生き残った漫画家ウィレムは、「いきなり自分たちの友だと言い出す奴らには反吐が出るね」と、辛辣なコメントを述べてさえいる。

しかし、そういう、お調子者のフランス人、自分たちを担ぎ上げて利用しようとする政治家たちをも、「Tout est pardonné しょうがねーなー、チャラにしてやるよ」、と笑い飛ばしているのが、この絵なのだ。今までの「シャルリー・エブド」誌の風刺絵の中には、鋭いものも、差別表現ぎりぎりのものもあったが、今回に関しては、お見事、というほかない。

関口涼子 / 翻訳家、作家:「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題より)

一方で二つ目の記事は、漢字かな交じり表記の「許す」「赦す」は、どちらも、やまとことばの「ゆるす」を表すものですよというのが主たる主張。

ただ、日本人の言語感覚として、「許す」と「赦す」は同じ意味だということはわかる。
すなわち、原語のニュアンスは正確にはわからねど、それを「許す」ではなく「赦す」に「訳し分ける」ということはムチャだということはわかる。

〜中略〜

日本語は大きく和語(本来の日本語)と漢語(輸入語)から構成される。
「ゆるす」は和語である。
和語に漢字を当てている場合、それは皆「当て字」である。

〜中略〜

そもそも、元となった中国語の漢字にはそれぞれに意味やニュアンスの違いがある。しかし、それと同じ差異が日本語の中に元々あるわけではない。

図書館発、キュレーション行き:「許す」と「赦す」は同じ意味ですよより)

広辞苑 第5版で「ゆるす」を調べてみると確かに「許す」と「赦す」は同じ単語となっている。

ゆる・す【許す・赦す・聴す】
(ユル(緩)シと同源。固く締められているものをゆるくする意)

  1. 引き締めた力をゆるめる。ゆるやかにする。万葉集(11)「梓弓引きて―・さずあらませばかかる恋にはあはざらましを」
  2. 気持の張りをゆるめる。警戒心をゆるめる。万葉集(4)「まそ鏡磨ぎし心を―・してば後に言ふとも験あらめやも」。「心を―・す」「見知らぬ人に気を―・すな」
  3. 差支えないとみとめる。禁を解く。自由にさせる。万葉集(8)「つかさにも―・し給へり今宵のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ」。伊勢物語「昔おほやけ思して使う給ふ女の、色―・されたるありけり」。宇津保物語(藤原君)「かくばかりふみ見まほしき山路には―・さぬ関もあらじとぞ思ふ」。「肌を―・す」「医者から外出が―・される」
  4. ある物・事に価するものと認める。公けに認める。源氏物語(東屋)「心ばせしめやかに才ありといふ方は人に―・されたれど」。玉塵抄(16)「天帝の吾を―・して百獣の長となされたぞ」。「自他共に―・す」「横綱を―・す」
  5. 願いをきき入れ、してよいとする。承諾する。許可する。推古紀「将軍等いくさのきみたち共に議りて表ふみをたてまつる。天皇すめらみこと―・したまふ」。源氏物語(桐壺)「まかでなむとし給ふを、暇さらに―・させ給はず」。「入学を―・す」
  6. 罪・咎とがを免じる。赦免する。孝徳紀「諸国の流人及び獄の中の囚、一に皆放捨ゆるせ」。源氏物語(明石)「罪に落ちて宮こを去りし人を三年をだに過さず―・されん事は」。狂、針立雷「雷殿の療治は終に致しませぬ。御―・されませ」。「―・されて刑務所を出る」
  7. 負担や義務を免除する。仁徳紀「課役並に免ゆるされて既に三年に経なりぬ」。「税を―・す」
  8. (しっかりと捕えたものを)のがす。そらす。逸する。万葉集(17)「朝猟にいほつ鳥たて暮猟に千鳥踏みたて追ふごとに―・すことなく」。大鏡(師輔)「宮にかくなむ思ふとあながちに責め申させ給へば、三度知らず顔にて―・し申させ給へり」
  9. ある物事が可能な状況にある。「事情の―・すかぎり参加します」

一方で、2つ目のエントリーの「日本人の言語感覚として、「許す』と『赦す』は同じ意味だということはわかる」や「元となった中国語の漢字にはそれぞれに意味やニュアンスの違いがある。しかし、それと同じ差異が日本語の中に元々あるわけではない。」というのは少し不適切で、意味からすると許可の意味と赦免の意味のそれぞれの「ゆるす」は存在している。許可の意味は5番目、赦免の意味は6番目。前者の出典として源氏物語が、後者の出典として万葉集が示されているので、日本語の中に元々ある意味だと考えて良いと思う。

2番目のエントリーのはてなブックマークコメントの否定的な意見は、「許す」=「許可の意味の『ゆるす』」、「赦す」=「赦免の意味の『ゆるす』」と理解するのが一般的だから、これは難癖だろ!というもの。

整理すると以下のとおり。

  • 「許す」「赦す」はどちらも「ゆるす」を表す
  • 「ゆるす」には許可の意味と赦免の意味の双方がある
  • 「許す」=「許可の意味の『ゆるす』」、「赦す」=「赦免の意味の『ゆるす』」と辞書的に限定されているわけではない
  • ただし、「許す」=「許可の意味の『ゆるす』」、「赦す」=「赦免の意味の『ゆるす』」は漢字の意味や使い方から、わからなくもない(というか、良くわかる)

1つ目のエントリーで「許す」と「赦す」の表記にこだわっている理由は、このエントリーの作者が「翻訳者・作家」であることから良く理解できる。作者が伝えたいことを誤解ないように伝えるためにはどうすればよいのかという観点から言葉を吟味する職業なので、「ゆるす」に9つの意味があるとき、どの意味で「ゆるす」をつかっているのかを限定したくなるのは理解しやすい。意味の限定のために漢字かな交じり表現を使うならば、慣習的に誤解を招かない表現を使うべきだというのは適切な提言だと思う。

一方で2つ目のエントリーは引用している『漢字と日本人』を見る限り、辞書的な使い方として漢字かな交じり表現に意味の特定の用途はないにも関わらず、優越感ゲームの一環として「それは正しくないんだよ!」と言う人たちへの反発として、このエントリーを書いたのだと思う。これは確かにそのとおり。2年前ぐらいにも似たようなやり取りがはてなブログではあったみたい。

なので、この2つの記事をまとめると「複数の意味がある用語について漢字かな交じり表現で意味の特定をしたい場合、できるかぎり誤解を招かないように適切な漢字かな交じり表現をつかった方が良い。もし、漢字かな交じり表現で意味の特定をする意図がない場合はひらがな表記にした方が、やまとことばと漢字かな交じり表現の関係から適切である。」となると思う。