「グローバル化の名の下に…」とグローバルであることを批判的に考えるときに

伝統や歴史、地域性に関わらず

  • 地球上に存在している人すべては同じ物理的法則にしたがうということ
  • 上に関連して、人類は国、人種、民族を越えて混血可能な(子供を作れる)こと。つまり生物として同種であること
  • 基本的には人種や民族の優劣はなく環境や状況によって社会のあり方や技術が変わる(「銃・鉄・病原菌」のテーマはこれだった)

上記のことを考えるとどうしたって「グローバル」な物事はでてきてしまう。自然科学の内容はどうしたって世界で共通の内容になってしまう。理由は、我々は地球上に住んでいるから。医療や技術についても、それをどのように受容するのかは伝統や歴史、地域性によるが、医療や技術の影響は、世界のどこにいっても、誰に適用しても変わらない。なぜならば、人類は生物として同種だし、地球上で物理法則が変わる場所はない。人文学や社会科学の内容についても、環境や状況が同じならばどの人種や民族に適用できるような普遍的な知見がある。

グローバル化の名の下に…」とグローバルであることを批判的に考えるときには「価値観」を世界で共通にすることについて批判されることが多いのだけど、それと一緒くたに、そもそもグローバルになってしまう物事まで批判してしまうのはよろしくないと思う。教育の内容のどの部分が、そもそもグローバルなものなのか、どの部分が実際にはある地域や社会、環境、状況において成り立つことなのかというのを区別し、非グローバルなものをグローバルなものとして押し付けてくる点について批判すべきだと思う。

以上の考えから、タリバーン幹部からマララへの手紙、全訳で紹介されているグローバル教育批判はまったく賛同できない。教育している内容ではなく、教育している内容が「どこ由来」なのかだけを気にしている。内容に踏み込んでいない。考えさせられる点は次の点だけだと思う。

正直に答えて欲しい。もしアメリカの無人機が君を撃ったとしたら、世界はあなたの医学的容態に関心を持っただろうか?あなたは「国の娘」と言われただろうか?メディアは大騒ぎしただろうか?カヤニ将軍が君の元を訪れ、メディアもそれを報道するなんてことがあっただろうか?国連に呼ばれることがあっただろうか?マララの日があっただろうか?
タリバーン幹部からマララへの手紙、全訳より)