Scatman John

朝日新聞:伝えられぬ苦しみ「吃音」 就職4カ月、命絶った34歳を読んですぐに思い出したのは Schatman John。

吃音というものを障害としてとらえたのは Scatman Johnを知ってからだった。「Scatman」を聞いたときは自由なおもしろい曲だなとしか思わなかったけど歌詞をみるとまた違った感慨がわいてくる。

昔訳したかれの最後のライナーノート直訳

彼は、800万枚のCDを全世界で売った。そして、世界のほとんどすべての国で2回のTOP1に輝くシングルを発売した。14回のゴールドレコード、18回のプラチナレコードが彼の素晴らしさの証明である。そして、彼の顔写真でさえ、ヨーロッパ中に多くのコーラの缶に印刷されて出回ったのである。

そう、彼こそが、スキャットマン ジョンことJohn Larkinである。

彼の成功の物語は1994年の夏、JohnがMontreuxで演奏しているときから始まった。ある日の午後、Icebarg Recordsの社長が電話をかけてきて、スキャットラップというコンセプトについて提案をしてきた。Johnは6時間をレコーディングに費やした。しかし、彼は自分のつくったものについて不安だった。そう、それが最初の曲、「Scatman」だった。彼の不安とは裏腹に、「Scatman」は完成した。そして、ちょうど一週間後、ヨーロッパのチャートに人気沸騰しNo. 1の座を勝ち取ったのだった。

それから、年を経るごとにScatman-maniaの輪は地球を覆っていった。Johnの楽しみの一つは、彼の音楽が若者の耳に衝撃を与えることである。Johnは、子供のころから吃音を克服しようと努力してきた。そのため、Johnは自分の生き様で、吃音に真正面から向かい合わない若者、無力感にとりつかれている若者を勇気づけようとしていた。「私はScatmanです。なぜなら、私が吃音だからです。」彼はいつもそのように説明した。

「私が子供の頃、私は自分自身を表現する方法をしゃべる以外に見つけなければなりませんでした。吃音の人々にとって、スキャットすることは非常に簡単です。なぜなら、吃音スキャットは本当に似ているからです。子供のころ、私にとって一番の悩みだったことは、いまでは、私の一番の武器になっているのです。私は子供達に伝えたいのです。創作は、私たちにある目的のための悩みを与えてくれる。あなたの大きな悩みは、それらのあなたの悩みを飛び越えていける力の源を含んでいるだけでなく、私たちみんなの悩みをも飛び越えていける力の源を含んでいるのです。」1996年、John Larkinは世界の吃音者の社会において傑出した功績を残したことによりAnnie Glenn賞を受賞した。

一方、John Larkinの音楽的才能についての他の面も見逃すことはできない。ジャズは彼の生涯を通じて導き手として存在した。その傑出した成功がJohn Larkinに訪れたのは、彼の晩年の10年間においてだった。

Johnは1942年、ロスアンジェルスのEl Monteの郊外に生を受けた。そして、El Serenoの近郊で育った。JohnはそのころにElla Fitzgeraldのレコーディングを聞いて以来ジャズに夢中だった。そして、すぐにLouis ArmstrongCharlie Parkerやその他のジャズミュージシャンの音楽にどっぷりとつかっていったのだった。

John Larkinは、己のキャリアを歌い手ではなく、南カルフォニア周辺のジャズクラブでピアノの演奏をすることで築いてきた。後に彼は、こう語った。「私は、しゃべることが怖かったのでピアノの後ろに隠れるようにしていたんだ。」

ピアノの鍵盤の上では滑らかにBebopを奏でるピアニストは、あるとき、自分が歌を歌い、そして、その後スキャット、つまり適当な発声、音節を奏でると、自分の吃音が曲を盛り上げるのにすばらしい効果を発揮していることに気付いた。Johnは、彼独自の歌の言語を見つけた。「スキャットすることは、吃音から自由になる方法をあたえてくれたんだ。」後に彼はそう語った。

1984年の初頭、Johnは彼のプレイに歌うことを付け加え、彼のスキャットは拍手喝采を受けるようなった。それは、彼にパフォーマンスの全てに歌を付け加えるのに充分な自信を与えてくれた。彼は、1回に4つ近く音の調子を変えるという珍しい歌唱法を持っていた。そのテクニックは、古いヒンドゥー教ののどで歌う方法を引き継いだものだった。その歌唱法は、スキャットとモダンアーバンラップとダンスミュージックを結びつけるものであった。そして、彼はスキャットマンジョン、マスター オブ スキャットラップとなった。

ピアニスト、あるいはジャズシンガーとしてのJohnについて我々が聞くことができるのは1084年に記録されたピュアジャズと1990初頭のスキャットマンになる前までのものである。Johnが参加した3つの仕事はそのうち2つが希少なもので、それは、伝説的なテナープレーヤ―であるJoe Farrellの最後のレコーディングであった。

John Larkinは1999年12月3日に喉頭癌で亡くなった。享年は57歳。このアルバムは、歌い手、作曲家、そして、ピアニストとしてのJohn Larkinの記憶のためにリリースされるものである。

相手しているのは調子悪くしている人だし、場面によっては一刻を争う現場なので、Scatman Johnのように弱点を長所に変えることは難しかったとは思う。

その他、Scatman Johnの楽曲

Scatman Jazz version

Scatmans World → 歌詞

二枚目アルバムの白眉「Everybody Jam!」

Scatmanのジャズ学

かなり好きな曲:「People of the Generation」