「定義すること」と「定義した言葉でコミュニケーションすること」は区別しよう

私を含めたほとんどの人間は、自分の考えていることを相手に直接伝えることができません。何かしらのアウトプットを通じて、自分の考えていることを相手に伝えるしか方法がありません。このアウトプットの表現方法で効率がよく、かつ、誤解を招きづらいものが「言葉」です。

「伝えたいことを多くの人が理解できる用語を用いて説明する」のは、言葉を使ったコミュニケーションの基本です。自分にしか理解できない用語を使って、アウトプットを作っても、そのアウトプットを正しく読み取ることができるのは基本的に自分だけしかいないからです(赤ちゃんや幼児の場合は別。親や身近な大人が一生懸命意味を読み取ろうと努力してくれる)。

辞書は多くの人が理解できる用語と意味の対応をまとめたものです。言葉を用いたコミュニケーションを業務や重要な活動としている人たちが辞書を必ず手元に置くというのは、「伝えたいことを多くの人が理解できる用語を用いて説明する」という基本を守っているためです(守らないと言葉を用いたコミュニケーションが成功しない)。

一方、定義とは何でしょう?広辞苑の第5版は以下のように「定義」の意味を説明しています。

概念の内容を限定すること。すなわち、ある概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし他の概念から区別すること。その概念の属する最も近い類を挙げ、さらに種差を挙げて同類の他の概念から区別して命題化すること。例えば「人間は理性的(種差)動物(類概念)である」。

「定義」のポイントは「概念の区別」です。説明しようとしている概念が他の概念と異なることを示すのが「定義」という行為です。その行為によって定められた概念が他の概念と異なることを示す説明もわれわれは「定義」と読んでいます。

ちなみに「定義」という言葉を使ったときに概念を区別する行為の話をしているのか、区別した結果の説明の話をしているのかを良く検討しないと意味がわからないことになります(まさにこれが辞書が必要な理由です。同じ言葉を使っているのに、言葉の意味が違っているとコミュニケーションできません)

「定義」という行為は誰に遠慮することなく個人個人が自由に行えばよいことです。行為としての「定義」にも、説明としての「定義」にも「一般的に受け入れられる」という意味はありません。一方で、定義した用語や概念を用いて他人に何かを説明するときには、概念の説明が適切なのかを検討する必要があります。他者に説明する時には、多くの人に受け入れられている用語を使って、自分の説明したいことを適切に表現する必要があります。日本語話者同士なのに、使っている用語の意味がいちいち違うならば、コミュニケーションとれません。

イケハヤ書店:「定義」は個人的なものである:辞書の定義を信じる、残念な人たちの主題は「物事について他人のいうことを鵜呑みにせず自分で考えよう」だと思います。ですが、以下の主張には「じゃあ、どうやって言葉を用いたコミュニケーションをするの?」と素朴に思います。

「定義は個人的なものである」という境地に至った人からすると、「定義は辞書によって与えられる」と考えている人の話は、退屈でなりません。

以前にも「定義すること」と「定義した言葉でコミュニケーションすること」、「伝えたいことを多くの人が理解できる用語を用いて説明する」ことをごちゃまぜにして、しかも「定義」という言葉を「概念を区別する行為」「概念を区別する説明」「辞書にのっている用語の意味(多く受け入れられている定義)」の意味でフワフワつかっている議論を読んでモヤモヤしたのでこのエントリーを書きました。

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