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本を通読するのは当たり前でなかったかもという話

一つ前のエントリーを書くために検索して見つけた記事がとても面白い。みなさま、ぜひご一読を。

私が学部生のころもそうだし、今の学部生もそうだけれども本を頭から最後まで読まなければいけない。著者の思いに沿って読まなければいけないという思い込みが強い。ちなみに、私がこの思い込みから離れられたのは博士後期課程に入ってから。

専門書や論文は、頭からお尻までを全部均等に丁寧に読むものではありません。必要な部分を必要なだけ読むものです。ですから、均等に力を割り振って読むよりは、論文の一部分に全力を尽くしましょう。
論文の読み方より)

で、面白いのは上記の記事によると、18世紀のイギリスでは「必要なところだけ自由に読む」という読み方の人が結構いたんじゃないかとのこと。21世紀に学生を指導している私が18世紀の読書法を教えているというのは非常に面白い。

Q: 先生が最終的にご専門とされたところの18世紀イギリスの「読書」とはどのようなものだったのでしょうか?

「本は最初から最後まできちんと読みなさい」ということをよく言われますよね。実はジョン・ロックが同じようなことを言っています。ロマン派詩人のコールリッジもね、 「ミルトンやシェイクスピアの言葉を、その意味を変えず、また彼らよりも下手な表現にならずに書き換えるのは、ピラミッドの礎石を素手で抜き取るくらい難しい。」 なんて言っています。これはまさに受容的な読書の典型なんですけど、実は、18世紀にこれとまったく相反していた人たちがいて、サミュエル・ジョンソンという当時の文豪なんかは、「こんなくだらない書物を読み通す人間がいるだろうか」なんて言い放ったり、「あなたは書物を通読するのですか?」と教育者に問いかけたりしているんです。

どうもジョンソンは、『英語辞典』を作る過程でもそうだし、博識、非常に多芸多才な人間だったと言われていますけれど、同時にそれは読み飛ばす名人だったということでもあるのかも知れません。

しかしだからこそ、『英語辞典』の編集においても、あれだけの言語資料をほぼ独力で集めえた。ジョンソンが死んだあとに、その蔵書が売られるわけですけれども、そのカタログを見ると、非常に安いんですね。要するにジョンソンが読みつぶして汚くしてしまっている。で、その読みつぶしているのは、丁寧に通読して読みつぶしているんじゃなくて、あっちこっち拾い読みして、それで読みつぶしている。おそらく寝っころがって読んでいたんでしょう、だから本がものすごく傷んでいる。

Q: 先生と高宮先生が編纂された『本と人の歴史辞典』(柏書房)を見ますと、ジョンソンが本をぐわっと開いて読んでいますね。あまり愛書家の読み方という感じではないですね。

あれだけの読書家ではあるけれど愛書家ではなかったということですね。そういう読書者がいて、他方でコールリッジやロックの系譜の人がいて、それぞれどういう風に釣り合っていたのかということですね。もちろん、真面目な読み方は、それはそれとしてあったわけですけど、一つ確実に言えることは、今から考えると信じられないくらい、「不真面目」というか自由というか、あくまでも本に能動的にぶつかって行くようなジョンソン的読み方が少なくなかったということです。最初から最後まで、みたいな呪縛はなかった。

今は通読が当り前かも知れませんが、当時はジョンソン的な、飛ばし読みの読者がかなり多くいました。かったと思います。18世紀は、雑誌文化が勃興してくる時代ですね。『タトラー』とか『スペクテイター』などは最初は雑誌として出て、その後合本が刊行され、そのうちに叢書になって復刊される。雑誌にしても、あとから出た叢書版にしても、そもそもあまり通読を念頭に置いてはいませんね。必要なもの、面白いものを読む。本来「商品の貯蔵庫」という意味であった「マガジン」が、雑誌の名前に転化していくのは、まさにこの時期です。小説だって、お上品な通読を想定していたかどうかは、必ずしも定かではない。そもそも作家自身が、小説という新しい言語表現領域で、どうプロットを構築するのか、模索していた時期ですからね。ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』なんか、その典型でしょうね。

18世紀というのは、積極的で遊び心があるんです。『トリストラム・シャンディ』みたいに、トータルな筋を根本から否定するような作品がかなりあります。たとえば『ガリヴァー旅行記』だって、最初は小人の国に行って、次に巨人の国、ラピュータ、日本、そして馬の国フウイヌムへと旅するわけですが、 執筆順序は必ずしもこうではありませんでしたし、また児童文学なんかでは「小人の国」と「巨人の国」だけで成り立っていて、第三篇以降が消えてしまう、そういうのがいくらでもありますよね。おそらく、そういうバージョンのほうが世界中でよく知られているのではないでしょうか。ガリヴァーは第三篇で、空飛ぶ島ラピュータの後、バル二バービ、グラブダブドリブ、ラグナグ、日本と旅しますが、諷刺の矛先がこの順番によってより深く鋭いものになっているかというとそうでもない。ある意味で、どこから読んでも面白い。そういう風に考えてみると、通読にはどうしてもつきまとう、ある種の読書の消極性や受動性みたいなのとは相反する読書の習慣が存在したのではないか、と思います。


結局それは何だったのかということですが、当時は、革命もあり、混乱の中で新たな近代社会を構築していくという時代なんですね、しかも世界に先駆けてね。だから、ある意味では、規範となるものがない。自分たちで作らなきゃ、いけない。政治制度も経済制度も、そして何といっても、近代的な人間のあり方、そしてその人間たちが作る社会のあり方というものをね。そういう時に必要なのは、時として強引に見えることもあるかも知れませんが、古典であれ新作であれ、その優れているところをぐっとつかんで引っ張りだすような読書でしょう。これとこれが必要なんだと、そういう意識で書物に接する。だから18世紀後半にはアンソロジーがいろいろ出てくるということになります。そもそも今でも、面白いか面白くないか、良いか悪いかを判断せずに、やみくもに最初から通読している人はまずいませんよね。

しっかり学ぶとき、作品世界に浸って楽しみたいときには、頭から読んで通読するスタイルがあっているけど、自分に役立つ情報を見つけるというときには「優れているところをぐっとつかんで引っ張りだすような読書」が適している。目的に応じて、読書スタイルを変えた方が良い。

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