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「影武者 徳川家康」より「すむもすまぬもどう仕様もないことを、どうにもならぬ、と云うのさ」

前向きなあきらめについて私は隆 慶一郎さんの「影武者 徳川家康」で学びました。

新潮文庫版「影武者 徳川家康」中巻のp. 247 〜249より。

(念願の駿府城を建築した祝いの宴で、駿府城が内部からの放火に弱く防ぐ手だてがないということに気付いたあとのやりとり)
「これは今更どうにもならぬようだな」
暫くの沈黙の後で、二郎三郎が溜息をつきながら云った。

「どうにもなりませんな」
左近が鸚鵡(おうむ)返しに云う。気になっていたことを喋ってしまったためか、さっき迄(まで)とは打って変わってあかる顔になっていた。

「しかし、どうにもならぬでは、すまないでしょう」
これは小太郎である。真剣な顔だった。図面を引いた当の責任者として、当然だった。

「すむもすまぬもどう仕様もないことを、どうにもならぬ、と云うのさ」
風斎は禅問答のようなことを云って、にっこり笑った。老人のいぶし銀のような智慧に溢(あふ)れた笑顔だった。ひと目見ただけで、何かほっとするような、すばらしい笑いである。

〜中略〜

<なんという男たちだろう>
側室の中でたった一人、この宴に参列していたお梶の方は、驚嘆し、ほとんど感動していた。

危険を危険としてありのままに受けとめ、素早くそれに対応する処置をさぐり、それが終わるとまた悠々として酒を飲む。誰一人無用の恐れ、無用の不安などを示す者はいない。機嫌よく杯をほし、二郎三郎などは浮かれて立ち上がると、瓢(ひょう)げた踊りまで踊りはじめたものである。なんと島左近がからびた声で唄(うた)を唄い、小太郎が三味線を弾いた。

<なんという頼もしい男たち!>
お梶の方は、またそう思った。

いずれも歴戦の武士である。つまり徹底した現実家である。現実家だから、危険に対しては敏感だ。だが危険は恐ろしいものだ、という風にはこの男たちは考えない。危険は考慮し、対策を考え、対策のないときには極力それを有利に使おうと考える。ただそれだけのことだ。この男たちに恐怖心が欠如しているというのは間違いである。恐れるべき時には人並みに、いや、人並み以上に恐れる。ただ恐怖の先どりはしない。やがて起るかもしれぬ恐怖の場面を脳裏に描いて、早々と恐れることはしない。そんな恐怖心ぐらい根もなく意味もないものはない、と心底思っているのだった。その時はその時のことだ。今は今である。だから、将来の危険は今の快楽を少しも遮(さまた)げることがない。

これが真の意味の現実家というものであろう。そしてこの手の徹底した現実家ほど頼りになる者はこの世の中にいない。

私は小心者だし、努力家ではないので上記のような徹底した現実家からは程遠いのですが、このような人物像には非常に憧れています。少なくとも将来の危険を先取りして怖がり、今、目の前の歓楽を楽しめない人間にはなりたくないと思い、心がけています。まったくできていませんが、心がけてはいます。

ですが、危険を恐れるなといっても不確定なことは苦手ですからどうしても怖いものは怖いです。私も自分のこれからのキャリアを考えるとその不確定さに吐き気がこみあげて、夜中にいきなり目を見開いてしまいます。しょうがないので、これからのことを考えないようにして、目の前のできることを積み上げて、そのときになったら考えるということにしてやり過ごしています。真の意味の現実家でない自分としてはこれが精いっぱいですが、今を未来の恐怖を先取りすることで無駄にしてもしょうがないとは思うのです。