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なぜ、引用・転載をする際には出典を明記しなければいけないのか

発声練習

なぜ、引用・転載をする際には出典を明記しなければいけない理由は以下のとおり。

  1. 引用・転載した記述が本当に存在するかどうかを読者が確かめることができるようにするため
  2. 引用・転載した記述が妥当な文脈の下で引用・転載されているかを読者が確かめることができるようにするため

自分がある事柄について述べていないということを証明するのは非常に難しい(「無い」ことの証明は「有る」ことの証明よりも数段難しい)。なので、引用・転載する方が、出典を提示する義務がある。そうでなければ、我々の社会における様々な交渉事がとんでもないことになる。

学術的、ビジネス的なやりとりのみならず、ブログやTwitterで発言したことに対しても賛成できなければ批判するのはOK。でも、その批判は正しい方法で行うべき。

以下の原発名言というTwitterアカウントがやっている方法は、いつ、どのような文脈の下で発言したのかを読者が追えないようにしてある。これは、近年ネット上で「マスゴミのやり口」と言っていたのとまったく同じやり方だ。


このやり方によって、相手を黙らせたり、議論の場から退場させたとしても、この「やり方」を認めてしまった私たちは、誰かがこの「やり方」で私たちを陥れるのを止めることはできない。

我々は、3月11日の東日本大震災および福島第一原発事故を通して、ソースがついていない情報を信じてはいけないということを学んだはずなのに。なんで、こんなことに?

これだったらまだ御用学者Wikiの方が発言日時をつけてくれているので、元の発言について調べやすいのでマシ。

関連エントリー

追記:tari-Gさんの主張について

このエントリーのはてなブックマークのコメント

例えばNewsweek等でも寸言集ではこの程度が普通で、しかもツイッターの場合字数制限が強い一方、元発言の検索は極めて容易ですから、出典を確認する上で実質的な問題は何もなく公正な慣行の範囲内と見るべきものです。

およびトラックバックされた記事あんみつ庵月記:NATROMさんに訊いてみたでのtari-Gさんの主張ですが以下の2つです。

  1. Newsweekなどで出典なしの寸言集をやっているから、出典なしのコメント集を我々が作ってもよい
  2. 検索エンジンで検索して探せるから出典を明示しなくても出典を明示したのと同じである

どちらに対しても賛同しません。

Newsweekの寸言集というのをしらないので、Newsweek 10月17日号、Newsweek 日本語版 10月19日号を買ってきて読んでみましたが、多分、該当部分は日本語版のPerspectivesにあたると思います。

私が本エントリーで述べている以下の二点から言うとダメな方法だと思います。

  1. 引用・転載した記述が本当に存在するかどうかを読者が確かめることができるようにするため
  2. 引用・転載した記述が妥当な文脈の下で引用・転載されているかを読者が確かめることができるようにするため

この方法が受け入れられているのは、単にNewsweekが実績と信頼を得ているからでしょう。これと同じことを私がやったとしたら、普通に「お前、ソースを示せ」と言われるに決まっています。tari-Gさんや私、原発名言がNewsweekと同等の実績や信頼性を得てから、寸言集をNewsweekと同じ形でやればよいと思います。

偉人の名言集なども同様に出典を記していないものが多いですが、あれは「名言」だからお目こぼしを得ているだけです。偉人の問題発言集であるならば、遺族やその人をしる関係者が必ず文句を言ってくるはずです。そのとき、問題発言集を作る人のよりどころは出典であり、実際にその人がその発言をしている事実を明示できることだけです。

また、検索エンジンで検索して探せるから出典を明示しなくても出典を明示したのと同じであるについては、あんみつ庵月記:NATROMさんに訊いてみたにてご自身で「電子化されていないものなどいくらでもあるのですから。」とおっしゃられているとおり、世の中に電子化されていない書類や資料が山ほどあること、基本的にテレビやラジオで放送された番組、講演などはネット上にはないことを考えれば、成り立たない理屈です。

あんみつ庵月記:NATROMさんに訊いてみたで提示されている検索できる例

原発名言の「今のレベルで一般住民が健康被害を受けることはまずない。 by 前川和彦」 をgoogleの検索窓にコピーして、検索し、出典にたどり着いて参照する。

ですが、私は普通に探せません。

それよりも、そもそもの出典のリンクを張ってくれた方が普通に便利で誤解がありません。

現在、原発名言で転載されている発言の出典が検索で見つかるのは、御用学者Wikiが出典ごと2chの書き込みをコピペしているからです。出典を明記しないでも検索で見つかるというのは「たまたま」誰かが出典を明記してくれているから成り立つことであり、出典を明記しないことが当たり前になったら、検索で見つけるのは非常に困難になります。

Twitterが字数制限が厳しいので出典明記ができない」と考えるならば、Twitter原発名言のようなことをするのは仕様上無理であるので、やめればよいのです。

私もtari-Gさんもみなさんも、「ニュース番組は時間の制約があるので、正確な発言や文脈を踏まえた上でないと理解できない発言を放送するのは無理である」という主張を素直にうけとらないと思います。仮にできないならば、Webなり、活字なりを用いて誤解がないようにしてほしいと思いますよね?

追記2:伊勢田哲治さん提案の科学の定義

「もうダマされないための『科学』講義」第二章:伊勢田哲治「科学の拡大と科gカウ科学哲学の使い道」pp. 96 - 98より

科学か、科学ではないかの判断のおもな対象は、普通は「主張」の内容です。
〜中略〜
同じものが時期によって科学的になったり、疑似科学的になったりすることはちょっとまずい。そこで私が注目したいのは「態度」です。主張の内容よりは、ある主張がどういう態度を取ってきたかということが、むしろ判断の対象として重要視されるべきではないだろうか、と思うのです。

もうひとつ、科学の方法論が分野によってまちまちなのは確かなので、ある程度のバラつきをゆるすようなメタ基準(具体的な基準を作るための基準)を考える必要があると思います。

以上のような条件をふまえて、わたしが今提案している科学の定義は次のようなものです。

以下の所与の制約条件の下で、もっとも信頼できる手法を用いて情報を生産するような集団的知的営み

  • (a) その探求の目的に由来する制約
  • (b) その研究対象について現在利用可能な研究手法に由来する制約

〜中略〜
科学の定義をする上で、絶対にはずせないポイントは「信頼性」です。われわれが科学というものに何を期待しているのかといえば、信頼性と呼ばれるものです。
〜中略〜
(信頼性を高める)こうした手段が利用可能である問題設定で、しかもその領域で仕事をしている場合に、こうした手段を取り入れないのは疑似科学的だといえるでしょう。逆に、いちばん信頼できる方法論が、伝統的生態学的知識を取り入れることだった場合には、それをしっかりと導入するのが科学だということになります。

この定義を使うと、疑似科学と呼ばれるものは、信用できる方法論があるのに、それを使わないようなものだという分類ができます。

これは科学についての話だけれども、ダメな議論、ダメな批判というものも、自分の発言や主張の信頼性を向上させる方法論があるのにそれを使わないものであると考えられると思います。

Twitter上で公式RTといういつ、だれが、どういう発言をしたのかを明確に記録できる方法があるのにそれを使わない原発名言は「自分の発言や主張の信頼性を向上させる方法論があるのにそれを使わない」ので不誠実で信用できないと考えて問題ないと私は思っています。