コミュニケーションのためにコンテンツが消費されてもコンテンツは消えないと思う

Twitterやアニメ、ゲームという現代的なものが目新しいのであって、基本的にコンテンツはコミュニケーションのために消費されていると思う。もっというと世の中にある森羅万象はすべてコミュニケーションのために消費されるものであると思う。日本語の言い回しに「話の種に〜しておくか」というものがあるわけだし。また、「みんなが〜するなら、わたしも〜する」というのは良く見かける理由だし、私自身にも覚えがある。たとえば、スキーなんて滑りたくないのに、友達が行くかあスキー行ったとか(そして、怪我して帰ってきたとか)。

また、話の種に物事を消費する人もいれば、一心にその物事に取り組んでいる人も一定数いる。

2005年ごろルーブル美術館に行ったとき、絵を自分の目でみないで、終始カメラやビデオのファインダー越しに眺めている観光客が大量にいた。また、モナリザの前などは、人がぎっしりいるため、手を上に伸ばしてモナリザを携帯カメラでとり、そのままそそくさと離れていく観光客もたくさんいた。このような振る舞いをする人たちは明らかに絵を見にきていない。有名な絵を話の種として拾い集めているだけの人たちだ。一方、美術館の片隅には絵画の勉強をしている人なのか一生懸命に模写をしている人もいた。この人たちは明らかに話の種として絵を見ていない。絵そのものが興味の対象の人たちだ。

アニメやゲームが話のネタに消費されるというのは、単にアニメやゲームがコミュニケーションのネタに使えるほど一般的になってきたということと、ネットの発展により同好の士を探すコストが急激に下がったことの結果だと思う。

上記のまとめではパッケージだけあれば中身はいらないんじゃない?というつぶやきがあったが、たぶん、うまくいかない。ある事柄がコミュニケーションのネタに使える理由は、その事柄についてコミュニケーションとるのが楽ちんだから。なぜ、楽ちんなのかといえば、評価が定まっていたり、多くの人に共感される感情を引き起こしたり、議論すべきポイントが決まっていたりするから。すなわち、土台があるから。土台がない場合は、単なるフリートークの場になるだけなので、フリートークがうまい人以外はそこに近寄らない。結果として、コミュニケーションの道具にならない。

パッケージだけつくるとしても、誰かが製作者役を引き受けて土台をつくってあげなければいけない。パッケージ提供側が土台を用意するならば、それはコンテンツを作成しているのと同じ。利用者側が土台を用意するならば、提供側はコンスタントにヒットを飛ばせないので意味がない。