「〜をした/愛用した著名人リスト」は何を意味するか?

その人たちが何らかの理由で「それ」に価値を見出したということ以上の意味を持たない。この事実は「それ」がある観点から品質が良い、有効性があるということをまったく実証しない。

麻薬を利用した著名人リスト、殺人を行った著名人リスト、女性に暴力をふるった著名人リスト、子供を虐待した著名人リストをつくったとして、それを根拠に「しかし彼らは、ひとつの道を極めた人物、多くの人を引きつけた人物、あるいは生涯をかけて真実を追い求めた人物たちです。ただ、名前はよく知られていても、彼らの生活者としての側面にスポットライトが当たることは案外少ないものです。ウルマン氏も述べているように、音楽も、科学も、自然も、医術も、「高い次元では相互に結びついている」とするなら、さまざまな分野で既存の枠組みに捕らわれず時代を形成した人物の共通項として麻薬/殺人/女性への暴力/子供への虐待浮かび上がることは、それだけでも注目に値することです。」と述べたところで、これらが素晴らしいものであると評価されることはない。

自分がAというものについて、ある観点Vから「良い」ということを言いたかったら、その観点Vから良いと言えるための基準Cを明確にし、Aがその基準Cを超えることを示すしかない。

少なくとも大学で卒業研究を課しているところは、この当たり前のことを必ず教えている。「〜をした/愛用した著名人リスト」を持って、自分が売り込みたいものの価値を定めようとする人が世の中に増えるのはバカらしいと思われる方は、ぜひ、このような大学の存続を応援していただきたい。

追記

はてなブックマークのコメントより。

  • 言いたいことはよくわかるんだけど、それでも「直感」の担保によって誰かを「信用」『しなければならない』場面ってのもあるんだよね。なんでもかんでも自分で動けるわけじゃない。そして直感が外れると。

全部のことを自分で知れるわけではないというのは賛成。それについて以前このようなエントリーを書いた。