読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

**リテラシーは誰にも頼れないときに必要になる

リテラシーとは、広辞苑第5版によると以下のように説明されている。

  • リテラシー【literacy】
    • 読み書きの能力。識字。転じて、ある分野に関する知識・能力。「コンピューター‐―」

ある分野に関する知識や能力には上限はないけど、下限はある。たとえば、コンピューターリテラシーがあると主張している人がパソコンの電源の入れ方も分からないのであれば、普通の人たちは「あの人はコンピューターリテラシーがある」と判断してくれない。なので、一般的に言われている「**リテラシー」というのは、「ある分野において、最低限必要とされる知識・能力」であると考えてよい。

となると「どのくらいを最低限と考えれば良いのか?」という疑問が湧いてくる。「**リテラシー」が必要・不必要の話は、「ある分野において最低限必要な知識や能力はどのくらいか?」という疑問に対する答えの違いに収束できると思う。もちろん、「ある分野の知識や能力はそもそも必要か?」という疑問もあり得るが、ほとんどの場合、そんな分野のリテラシーが議論になることはない。たとえば、Web上や日常会話の中で「今の日本にはポケモンリテラシーが足りない」という意見は耳にしない。大体言われるのは「情報リテラシー」、「コンピューターリテラシー」、「経済リテラシー(金融リテラシー)」、「科学リテラシー」ぐらいだと思う。

なんで、このエントリーを書こうかと思ったかというと小学校笑いぐさ日記:本当に一般人に科学常識は必要なのか。を読んで、もやもやしたものが残ったため。私が理解した上記エントリーの主張は以下のとおり。

  • 一般人にとって必要な「科学リテラシー」というものは一体何なのか?
  • 何故、一般人が「科学リテラシー」を持つ必要があるのか
  • 科学リテラシーが足りないと、怪しげな代替医療やら健康器具その他にひっかかって、健康を損ねたり経済的な損失を被ったりするかも知れない
    • 結局は専門家(自分が信じるに値すると思われる人)が「それは効果ないよ」と言ってくれたから、それらを使わないのであって、その人の「科学リテラシー」の有無は関係ない
  • 民主制国家においては、国民は国家の主権者であり、科学行政に対してもそれは同様なわけだから、科学研究予算の適正な配分と、科学立国としての望ましい戦略立案のためには、主権者たる国民が科学的素養を有していることが必要なのである
    • 一般国民の科学的素養のレベルがどの程度だろうと、国家の最先端の科学研究戦略との間にはほとんど何の関係もない
  • また、「科学リテラシー」が低いと思われる人でも社会的成功を収めている
  • 科学リテラシー」よりも「『科学的っぽい』話を聞いた時に、その真偽の判断を適切な情報源に求めることのできる能力」が必要
  • 突き詰めるとそれは「政府や大学など、専門的な研究機関の説明を受け入れよ。“学界の権威主義”を批判する在野の自称研究者や非正統医療者、商売人の話は聞くな」となる
  • 以上より、一般人向けの科学リテラシーテストを考えていたら、一般人が科学について学ぶのって趣味以上の意味はないと思われる

これは「科学リテラシー」についての話だけれども、本質的には次の主張が成り立つと思う。ある分野において専門家がいるとき、非専門家に『**リテラシー』を求めるのは意味がない。なぜならば、ある事柄に対する判断について専門的知識が必要であるとき、『**リテラシー』程度の知識ではその事柄について判断を下せないからである。

この主張はもっともなので、覆すのは難しい。でも、この主張が成り立つにはいくつかの前提条件がある。

  1. どうして専門家がそのように判断したのかについて、非専門家は理解することができない
  2. 専門家は常に正しい判断をする
  3. ある事柄に対する判断を専門家に委ねることができる

1番目の「どうして専門家がそのように判断したのかについて、非専門家は理解することができない」は、事例によって変わる。一般的に、ある問題の解法を探すこととある問題の解法が正しいかどうかを評価することの2つの事柄について難易度が異なる場合があることが知られている(ある問題のアルゴリズムを見つけるのととそのアルゴリズムの評価は難しさが違う)。身近な例だと、数学やパズルの問題を解けなかった人でもその問題やパズルの解法を見て、実際に問題やパズルがその解法によって解けることを思い出してもらえば良い。

また、専門家と非専門家の間の能力・知識の差は後天的なものであり、かつ、能力の高さと知識の量は専門家と非専門家の間で連続的に変化していくものであるため、ある非専門家が未来永劫に非専門家であるとは限らない。一念発起して、専門家への道を歩みはじめる可能性は常にある。

「**リテラシー」はその分野における基本的な考え方や知識、技能なので、「**リテラシー」を持つ非専門家は、それを持たない非専門家よりもどうして専門家がそのように判断したのか」を理解できる可能性が高い。というか、専門家は「**リテラシー」を持つ非専門家が理解できる程度に自分がどうしてそのような判断を下したのかを説明できなければならない。

2番目の「専門家は常に正しい判断をする」というのは、非現実的な前提条件。我々の社会において、企業や組織の意思決定の透明性が重要視されるのは「人は常に正しい判断をするわけではない」という前提に基づいているため。「専門家が常に正しい判断をする」ことを当たり前にするためには、「専門家が常に正しい判断をするわけではない」という前提の下で、検証の仕組みを用意しておく必要がある。

3番目の「ある事柄に対する判断を専門家に委ねることができる」という前提もなかなか難しい。そもそも論として、「誰が専門家なのか?」という問題を解決しなければならない。専門家を選びだすコストを最小限にする方法の一つとして、「政府や大学など、専門的な研究機関の説明を受け入れよ。」という方法はアリ。政府や大学など、専門的な研究機関から何も情報が得られない場合には、自分が専門家を探さなければならない。そのときの判断基準になり得るのが「**リテラシー」だ。「**リテラシー」に基づき、あんまりにも変な輩はふるい落とすことができる。また、専門家がどうしてもわからない場合は、自分が下せる最良の判断を下すしかない。そのときの基準はやはり「**リテラシー」となる。

2番目と3番目は「信頼できる専門家」がいれば無視することができる前提なので、結局のところ「**リテラシー」というのは、このエントリーのタイトルどおり「誰にも頼れないときに必要になる」ものだと思う。ただし、専門家の判断を無批判に非専門家が受け入れるようになると、専門家が正しい判断をし続けるという動機が薄れる(どうして独占がダメなのかというのと同じ理屈)。よって、社会において専門家の判断を批判的に受け取る非専門家の存在は一定数必要である。そうでなければ、他の非専門家は安心して専門家判断を受け入れられない。

我々は忙しい現代人であり、かつ、専門知識はどんどん細分化されその専門性を深めていっている。そのような状況ですべての分野における「**リテラシー」を身につけることは不可能なので、自分が損をしたくない分野、自分が生きていく上で避けては通れない分野の「**リテラシー」を身につけ、その「**リテラシー」に基づき、その分野の専門家の判断を批判的に見るべき。「**リテラシー」を身につける余裕がないならば、その分野において信じられる専門家を見つけ、その人の判断を自分の判断の代わりに使用するのがベター。