先に思いがありそれを裏付ける証拠を揃える

院生兼務取締役の独り言:兄に教えてもらった、文系と理系のたったひとつの違いを読んで違和感があるので書く。

  • 俺「俺って結構理系っぽい思考パターンしてると思うんやけど」
  • 兄「それはない。」
  • 俺「何で?論理的な思考は結構得意な方やと思うで?」
  • 兄「お前は自分が正しいと思うかどうかで物事を考えてるやろ。それは典型的な文系型思考パターンや。」

このエピソードだとまるで「理系は自分が正しいと思うかどうかで物事を考えない」と主張しているように読めてしまう。理系だって、まずは「自分がどう考えるか」が先にあり、その後にその考えが正しいことを客観的事実で裏付けようとする。常に始まりは主観。

すなわち、文系と理系の違いは

  • 文系・・・考えるときの基準が、自分の内心(自分が正しいと思うかどうか)
  • 理系・・・考えるときの基準が、自分以外の客観的な事実

なのです。

まず、エントリー全体が文系と理系という話よりも、事実優先思考の持ち主かそうでないかを議論しているのだと思う。なので文系と理系の言葉を使うのはミスリーディングであると思う。そして、表現の差であると思うけれども、事実優先思考の持ち主かそうでないかの違いを表す点として「自分の意見や主張が事実と反するときには、自分の意見や主張を取り下げるかそうでないか」ということがポイントだと思う。

一般に自然科学は理系といわれますが、この分野では実験で得られたデータや観察によって得られた客観的な事象を基に考察します。

この部分も誤解を招くように思う。まるで自然科学分野の人間は客観の権化のように思われてしまう。

実験というのは何かを測定したいから行うということ。ある物事を測定/観測したいから実験を行うのであって、それを定めずに実験はできない。どうして、その物事を測定/観測したいのかといえば、実験者が明らかにしたい「何か」があるから。その「何か」を明らかにしたいというのは明らかに実験者の主観的な思い。

そもそも、自分の主張を他人に納得してもらうとき科学的裏付けが必要だから、実験をしてデータを収集するのであって、実験をしてデータを収集したから自分の主張が生まれるわけではない(まあ、お金持ちの研究室にいる人などは漫然と実験やってそのデータから何かを発想するのかもしれないけど)。

一方社会科学や人文科学といったいわゆる文系の分野では、基本的に客観的なデータに基づいて考察することはせず、ある結論が妥当かどうか、それでいいかどうかという価値判断を必ずします。

「社会科学や人文科学といったいわゆる文系の分野では、基本的に客観的なデータに基づいて考察することはせず」というのは普通に偏見だと思う。あと、価値判断は理系の論文でもしょっちゅう登場すると思う。その価値判断の裏付けが統計的データだったりするだけで。

考え始めるきっかけとその考えを他人に納得してもらうための手法をごちゃごちゃにして考えてはいけないと思う。事実優先思考の人だろうが、自分の思い優先思考の人だろうが、考え始めるきっかけは主観的なものだと思う。この二つの思考法の違いは、自分の考えを他人に納得してもらうときどういう戦略をとるかの違いにある。文系だろうが理系だろうが関係ない話。

余談ながら、学生だったときに後輩に「論文には客観的なことしか書いてはいけない」と指導していたら、私の指導教員に「主観的な意見が書かれていない論文なんて価値がないと思うのですが」と煽られたのは良い思い出。