博士号取得者のみを大学教員とする方針についての見方

人事ではもっと深刻なことが発生している。

法人化した時点では、特任教授というポストを設けて、民間の方々に門戸を開いて大学で教育や研究をしていただけるようにした。この効果は大きく、民間企業で活躍された方々が若い学生たちを教えることのメリットは計り知れない。私の周りには、そんな特任の先生方がたくさんいらして、学生だけでなく私たち教員の成長の糧にもなってきたと言ってもいい。

それなのに「特任の教員も博士の学位を持っていること」「週2日以上大学に出勤すること」などといった運用ルールを定める動きが進みつつある。大学で教育活動に携わってほしい民間で活躍された方は、多忙を極めてきた方だから、博士号を持っていないケースがほとんどだ。大学のためには週1日しか割けない方も多い。大学に必要な人を排除するような運用を進めるべきではないだろう。

こういう考え方もあるのかと驚き。博士号の価値を高める観点からすれば、今までの博士号を持っていない人でも大学の教員になれた(助手になってから博士号を取得、もっと古いとそもそも博士号を必要としていなかった)という状態の方が問題だったと思う。でも、現状において、企業と大学間で人材の流動性を高める観点からすると、博士号取得者を大学教員の必要条件にするのは、「内向き」に見えるのだろう。

工学部でよくある人事は、国や企業の研究所に勤めている35〜40歳の方を大学に転職させるケースだ。成功例も多いが、失敗例も多い。このような方は大学で博士号を取得し、ずっと研究の世界にいて、学界のことしか分かっていないことが多い。一般社会という現場を知らないことが大きなマイナスになっている場合が目立つのだ。研究テーマの選び方を間違えたり、研究発表ですべてが終わったと考えてしまったりする。

だから、修士課程卒業で民間経験のある方を、30歳ぐらいの若い段階で大学へ転職させ、その後で、博士の学位を取らせ、次のステップに進む形の人材育成プランの方が、成功確率が高いことが多い。

40歳前後の固まった研究者より、民間ビジネスを知った30歳前後の人に新しい道を歩ませる方が成功確率は高そうなのだ。私自身も29歳の時、民間企業の設計部から大学に転職し、その後に博士号を取った。

学位がないので、大学へ来た当初の私は助手という立場だった。ところが助手という呼称が助教という呼称に変わったとたん、助教は博士号を持っていることが必要条件だということになりそうになってきた。今であれば、私のような転職事例は排除されてしまうのだ。

このように、いろいろな人事の面で、国立大学が門戸を閉ざし、「開かれた国立大学」への流れを逆行させている。

法人化に伴って国立大学の経営力が低下しているということもできるだろう。内部の大学教員を守るような、参入障壁を設けるような経営は、後ろ向きの「縮む経営」である。大学に限らずそのような組織は萎縮し衰えるのが必然だろう。このままでは日本の国立大学の国際競争力はますます低下する恐れがある。

うーん。過渡期である現状はこのやり方がうまく行くと思うけど、将来的には博士号取得→会社へ就職→大学へ戻ってくるという流れのほうが良いはず。立場が違うと見え方が違うという良い例だなぁ。

追記

NBOnline:縮みゆく大学経営で言われている博士号持ちのみを大学教員として採用することの欠点は、現状の博士課程教育の不備と博士号取得者が民間企業に就職しない(できない)ことに起因している話。この二つの原因を解消するためには、博士号取得者が民間企業に就職することが多くなればほぼ解決できる(民間就職が多くなれば現在のアカデミック優先の博士課程教育も変えざるを得なくなる)。

一方で、現在の日本における博士号の意味は大学院設置基準によると「博士課程は、専攻分野について、研究者として自立して研究活動を行い、又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。」とある。つまり、博士号取得者は、研究者もしくは高度技術者の訓練を受けた人間であることが要求されている。大学の教員は、修士課程の学生や博士課程の学生も指導することが求められているので(ここの考えが他の方々と違うのかな?)、上記のような訓練を受けていない人が大学の教員になるのは変であるというのが私の考え。

でも、以下のトラックバックしていただいたエントリーを読んで、私の考えはちょっと研究によりすぎていたかなと思った。