やる気のない生徒に教えるということは真面目に考える必要はないんじゃない?

「分かりやすい教え方」の技術のコメント欄でakatori777さんから頂いたお題。議論は大好きですのでakatori777さんがよろしければ議論を続けて見たいと思います。レスポンスは遅くなるかもしれませんが、よろしければお付き合いください。

議論のスタートとしましては、私とakatori777さんの二人が何について議論するのかをまず明確にし、その上で、二人の認識や意見の違いが明らかにすることが、とりあえずの議論のゴールとして良いのではないかと思います。

経緯は以下のとおり。まず、akatori777さん曰く

はじめまして。
そもそもやる気のない生徒に教えるということ自体が途方も無いリソースの無駄遣いという考え方はありませんか?

私のコメント

ですので、このエントリーでは

> この本の定義する「先生」ならば、この本を必ず読んで、この本に書かれてあることを心がけたほうが良い。
> 一方で、「生徒」ならば、この本に書いてあることを「先生」に求めてはいけない。「生徒」は先生はえらいを
> 読んでそちらの心構えを使ったほうが良い。

と書きました。

また、職業教師の場合、生徒が必ずしもやる気があるわけではありません。やる気のある生徒だけを
相手にできるならばこれほど幸せなことはありませんが、現実的にはそれが許されませんから、
私はすべての先生はこの本を読んでかかれていることを心がけた方が良いと考えました。

あと、学び始める前(学び終わる前)に学んだことの重要性を理解できる人が少ないということも
ある程度考慮しないといけないと思います。

akatori777さん曰く

その前提が正しいならその議論も意味がありますが、現実的には学位も就職への有利さのために得る目的の学生が大多数である以上、教育というのはほとんど崩壊しているのです。
先生がやる気のない生徒に如何に解りやすく教えるか、という命題は頑張って真面目に考えるほどの価値のある議論ではないんですよ。そこを重々承知の上で敢えてなおその話をする、というのなら止めませんが、もっと本質的な、前提条件から検証する議論をした方が有益ではありませんか?と私は意図しています。
そういう意図はnext49さんには全く無い、というのであれば私もこれ以上お話をすることはありませんが、そうでもないような気がしますので。

akatori777さんが議論としたい対象は、「『分かりやすい教え方』の技術」で定義されていた「先生」と「生徒」の話ではなく、学校教育における先生と生徒の話であると理解しています。ただ、これ以外の部分についてどういう議論をされたいのかちょっと分かりかねます。

そこで、これから議論を進めていく上でakatori777さんにお伺いしたいのは以下の点です。

  • akatori777さんの言う教育とは何か?
  • akatori777さんの考える教育が成り立っていると判断している条件は何か?
  • 上記の教育が成り立っていると判断できる条件のうち、現在はどの条件が崩れているのか。また、その根拠は何か?(akatori777さんが考える理由で結構です。別に定量的なデータは不要です)
  • 「本質的な、前提条件から検証する議論」というのは何について議論したり検証したりすることなのか?