現在の社会における大学・卒業研究の位置づけ

研究に興味ない学生にとって卒研は不要という意見のメモ。私としては研究を構成する考え方、やり方は日常生活や一見研究と関係のない仕事の中でしょっちゅう出てくるものだと考えているので「研究」という過程を自分とは全く関係ないものとして扱うやり方が不思議でしょうがない。

クリティカルリーディング(批判的に本を読む方法の理解)、論理的思考法(演繹的思考法、帰納的思考法、仮説生成的思考法とこれらの思考法の限界の理解)、証拠に基づく議論術、技術文書作成法、あと研究分野によっては協調的作業の経験など、ホワイトカラーと呼ばれる職種で要求されている能力そのものに思えるけれども価値がないのだろうか。まあ、実際には、これらを明確にかつ体系的に教えられているのではなく、卒業研究を通して暗黙にかつ断片的に学び取らせているという点が問題なのだと思うけど。

以下、私の過去のエントリーを含めて関係ありそうなものを抜き出し。

研究とは科学的手法に基づいて世界に存在しなかったものを存在するようにするものである。勉強は、世界に存在するものを学ぶ(存在を認識する)ことである。もう一度いうと、研究は「無い」ものを「有る」ようにするのが目的、勉強は「有る」ものを「知る」のが目的。

一方で、就職活動を始める時期がどんどん早まり、3年生の10月くらいから始まるようになったのは、困ったことだなぁと思う。勉強と研究は全く異なるものであるので、大学3 年生までのイメージで「もう勉強したくないから就職する」という理由で、研究を理解しないで大学を終えてしまうのがもったいないからである。明らかにこれら二つは違うので両方とも経験してみてから、進学か就職かを決めたら良いのになぁと思う。研究が肌にあわないのならば、就職して、研究をもうちょっと学んでみようかなと思う人は大学院へ行くというようになれば良いと思う。

大学院修士課程に進むということが、研究者になるということを選択したという時代は遥か昔に過ぎた。大学院修士課程というのは、研究者という道もあるという可能性を開くものであり、かつ、研究を行うことで勉強を行うことだけでは得られなかった考え方や方法を学ぶところである。当然、高度な知識習得のための勉強を行うところでもある(ただし、この知識が社会での仕事に直接的に結び付くかは非常に疑問だけれども)。

仕事が自動化されて、ますます高度で複雑な仕事をこなさなければならないようになっている現在、求められているのは創造的活動が行える能力であり、大学においてシステム的に創造的活動を行えるのは研究活動においてだけである。研究者という職業人を増やすのを目的とせず、研究活動という経験をした人材を得るのを目的として、大学院修士をより利用した方がよいと思う。

この研究を行う一連の過程の中で引用とは目的が異なるが、マーケティング、生産性、マネージメント、イノベーションの4つの要素は必ず含まれる。研究対象が世の中でどういう位置づけにあるのかを調べ、その調査結果を踏まえて何かを創造する。よって、マーケティングとイノベーションは研究にとって欠かせない要素である。また、最近はプロジェクトによる研究も増えてきたことからマネージメントも不可欠である。研究成果は大量生産されるわけではないので生産性はあまり重要ではないが、限られた期限内に研究をおえなければならないことも多いので無視できるわけではない。

卒業研究は、研究を体験、あるいは真似てみることであるので、間接的にではあるが、マーケティング、生産性、マネージメント、イノベーションに関しての体験あるいは真似事を行うことになる。だから、大学の講義でマーケティング、生産性、マネージメント、イノベーションに関して学ぶのは難しいが、大学の講義で得た知識や技術をベースとして卒業研究を行うことでマーケティング、生産性、マネージメント、イノベーションの初歩を体験、あるいは匂いを感じることができると考える。引用文で指摘されているとおり、マーケティング、生産性、マネージメント、イノベーションについて大学が教えていないのはたぶん本当だと思う。けれども、これらが体験できるカリキュラムが組まれているかどうかでいえば、卒業研究がを体験することで、匂いは嗅げるのも確か(まあ、この主張は、能の動きから剣術の奥儀が学べるというような、そう考えればそう認識できるかも知れないねレベルかもしれないけれども)。

夏休みの宿題の意味を問い直す必要があるように、大学の最終単位として、卒業研究が存在する意味も問い直す必要があるのではないかということ。なぜならば、卒業研究が存在するからこそ、大学の教員は研究者であることが求められており、卒業研究は事実上、研究者への道への第一歩であるととらえられている。大学が学生に研究する能力を教育することが求められていないのであれば、卒業研究は明らかにいらない科目だ。

昔と異なり、大学進学者も増え、自然科学、応用化学系に入学したとしても、卒業後は必ずしも研究に関係する業務に携わるわけではない。そう考えると、大学の締めが卒業研究である必要性はいったいどこにあるのか?

私は、大学の教員なので卒業研究、修士研究は仮に将来二度と研究に関連する業務をやらないとしても、今後の人生において役に立つ能力を身につけるために絶好の科目であると思っているが、そう思わない人もいるだろう。非研究職についている方々において、卒業研究というのは自分を高めるために(見聞を広められたというだけでもOKだと思う)役にたったのだろうか。今後も大学の最後の科目が卒業研究であってよいのだろうか。

卒業研究や修士研究で苦戦するのはたいていテーマに強いこだわりを持っている人たち。まあ、これは当然のこと。研究においてどのテーマで研究を行うのかというのが研究が成功するかしないかの8割近くを占める(ちょっと言い過ぎかもしれないが、少なくとも5割は占める)。このもっとも研究のセンスや経験、知識が必要とされるテーマの選択を未だ研究をしたことのない人間がいきなりちゃんとできると思うのがおかしい。これは学生だけでなく、指導教員もおかしい。

逆にいえば、テーマを選ぶというのはそれぐらい面白く、興奮できて、しんどい作業であるということ。これを自力でできる学生は本当によくできた学生だ。そして、これに取り組んでがんばった学生も本当によくできた学生だ。

でも、ちょっと考えてほしい。大学院の設置基準が変更され、今、大学院に求められているのは研究者を輩出するのと同時に高度技術者を輩出することでもある。テーマ設定というのは研究者が必ずできるようにならなければいけない技能ではあるが、大学院に進む学生全員は研究者になるわけではない。ましてや、学部生は。工学部・理学部の学生の半分が大学院(修士課程)に進学するとしても、残り半分は就職するのだから、それを考慮にいれた卒業研究指導をしないと。はっきりいえば、エリート研究者養成プログラムを学部生全員に適用するべきじゃない。

西垣さんが引用した言葉は「10年泥のように働き、次の10年で人材管理などを十分勉強してもらい、次の10年で学んだことを発揮してもらう」というような意味合いだった。言いたい言葉の意図は「業務を体に覚えさせ、体で覚えた業務をもとに人材管理を学び、そして、管理・運営を行える人材となる」ということだと思う。なので、10年奴隷のように働けというのはうがちすぎな見方。古い考えかもしれなけれども、エリート主義(いきなり人材管理から入らせる)ではなく、現場叩き上げ主義なのだから、エリート批判に傾きがちな世論からすると結構賛同できる言葉じゃないかと思う。

どうして採用時に技術力が求められないのかという点について。IT業界と十把一絡げにまとめているが、人材がもっとも欲しいと思っているのは業務システム・インフラ系システムを開発しているところであり、ここで求められる人材像は業務知識に精通し、かつ、大規模システムをチームワークで作れる人材である。技術力を持っているに越したことはないが、技術力があったとしても業務知識がないと開発に投入できないので、どうしても社内で教育して育てる必要がある。このような業務システムの開発は、西垣さんが引用した現場叩き上げ主義とよくマッチする。入社後にいきなりスター開発者としてバリバリと力を発揮するのは開発しているシステムの観点か難しい。

専門教育が重視されていない理由(優先順位が低いと思われる理由)については私が理解した限りでは以下のとおり。

  • 人数が一番欲しい業務システム開発では、社内教育が必要不可欠で、専門性が高い=即戦力にならない
  • 当たり前にできているべき、コミュニケーション、文書の読み書きができていない人材が多く、そっちの教育からスタートしなければならないのがバカらしいので、それができている人をとりたい
  • 専門教育を受けている人材が年間たかだか2,000人ぐらいしか輩出されないため、専門教育を受けていない人を採用せざる得ない。そうすると社内教育をしなければいけない(どうせ、教育するなら専門教育を受けている人材を追加コスト払ってまで採用せんでも良い)

いろいろな人が考えるときには、考えたものを実際に目で見える形にしなければならないと同意しているのに、どうしてこの技術が小学校〜大学までの間で、教えられないのか?

私の答えとしては、そんなを教える科目がないから。考えて、堂々巡りになって、何もアイデアが手に入らなくて困った経験ができる科目を私は卒業論文でみたことはない。授業の外では、部活動、サークル活動、委員会などの課外活動、友達との付き合いなどでみたことあるけど。課外活動で考えるときの技術を教えてくれる人なんていないよね。

「この街のこのお店には在って然るべきこの商品がない」というのは、既にある枠組みがあり、その枠組みにおいて満たしているべき条件を満たしていないということを見つけること。すなわち、問題自体は観察している事象に既に含まれているので「問題発見」(上記の図αの空白部分を探すこと)。「『そうでなくてはならない必然性などない』のにそれを構想すること」というのは、既にある枠組みをイマジネーションにより自由に変え、その上でその新しい枠組みにおいて、問題発見を行うこと。あるいは、枠組み自体を変更すること。それが「問題発明」(上記の図βの空白部分を探すこと、あるいは作り出すこと)。

どちらも重要な発想だ。私の理解が正しいと仮定した上で、この能力が身につく順番は、まずは「問題発見」ができる能力。その後に「問題発明」をできる能力。これを勉強の話と絡めるならば

  • レベル1:解答能力(問題が提示された上でそれを解く能力)
  • レベル2:問題発見能力(その観察事象が収まるべき枠組みを調べ、その枠組みを満たすための問題を発見する能力)
  • レベル3:問題発明能力(新たな適切な枠組み自体を構築する能力) 

アタリマエのことではあるが、それぞれの大学院生が抱えている課題は「研究課題」である。「研究課題」ということは、原則として、全く同じ課題に過去に取り組んだ人がいないということであり、結果が「わからないこと」である。結果が「わかっている」なら研究ではない。「わからないから研究」なのである。

もちろん、教員とて「研究の結果がどうなるか」はわからない。意外に知られていないけれど、研究とは「教員も結果がわからないこと」なのである。 

もちろん、教員側には若干の「経験」「テクニック」「クソ度胸」がある。これらを駆使すると!?、課題の結果が「全くわからない」かというと、不思議なもので、何となくおぼろげながら「予測」はつく。

〜中略〜

 むしろ、教員のやっていることは「わからないこと」を前に、学生と一緒に討論し、彼が仮説を練り上げたり、意思決定をすることを助けることに近いように思う。をあるいは、「研究って楽しいぞー、こうやりゃいいのかもしれねーぞー」ということを、「研究する自分」を通して見せることに近いように僕は思う。

「わからないことを、わかったふりをして教えることはできない」。まして「教員が仮説を練り上げ、意思決定をするなら、それは教員の研究である」。もちろん、「やる気がない人にやる気をつけてあげる時間はない」。

サラリーマンとして働いて感じるのは、「自分の意見を持つ」ことよりも「模範解答探し」のうまさがはるかに重要だということだ。

お金を稼ぐためには、お客さん(や上司)を喜ばせなければならない。喜ばせるための「答え」への嗅覚、これは数学の問題や小論文で「模範解答」を探すことに非常に近い能力だと感じる。

もちろん、ペーパーテストが得意な東大生がいきなり会社に入って、社会人としての模範解答を見つけるのは難しい。しかしそれは経験が足りないだけだ。しばらく社会人としての「例題」や「練習問題」をこなしていけば「なんだ、同じじゃん」って気づくはずだ。少なくとも私はそうだった。

一方で、自分の意見を述べる必要は極端に言えば皆無だ。「今日は休みたいな」というのが自分の意見でもそれを言うことは許されない。「馬鹿なこと言ってるな、こいつ」と仮に思っても、それを口に出したら終わりである。

ビジネスパーソンにとっての「自分の意見」は、極めて客観性の高いものであることが求められる。自分がどう思っているかは関係ない。儲かるか、儲からないかが基準なのである。自分が基準ではない。

私の疑問はなぜ自分で考える事ができない学生を無理矢理にでも卒業させてやらなければならなかったのか、またそうさせてしまう深刻な大学の持つ雰囲気です。

自分自身そのような環境にいますから、卒業論文以外の単位と内定先をそろえた学生に卒論で不可をつけることがかなり難しいことは百も承知なのですが。自分で考える習慣を身につけられなかった学生にもっと考える時間を与えることが望ましいと思うのですが、今の日本の大学のもつ雰囲気としては、無理矢理にでも卒業させようというところが多いです。自分の大学ですとそうなった場合指導教員が内定先にお詫びの連絡を入れる風習があるそうです。なぜ教員がお詫び?というのは不思議で可笑しいです。(自分はまだやったことがないですが。)

この問題はかなり根が深くて、大学の最短修業年限にこだわる学生と「(留学などの特別な事情がないのに)留年する学生は要領が悪い?」と社会が見なしていることが問題のように感じています。ホントかどうかわかりませんが、留年生が増えると文科省の評価が下がるということを同僚から聞いたことがあります。学生の学ぶペースはそれぞれで、遅ければ遅いなりにしっかり本質を獲得する可能性もあるのに、とにかく画一的な年限で卒業させようとする雰囲気が強いのは困ります。

優秀な学生も、学習内容の獲得に時間がかかる学生も、外部から見たら区別がつかないのが今の大学の現状ではないでしょうか。(もちろん社会が大学で学ぶことにそもそも期待していない(と考えている)風習も遠因でしょう。でも本当にそうなら、卒論が未了で卒業できない学生でも企業に採用して欲しいものです。)その点では、それに限らず、様々なところで大学教育の画一性が現場で深刻な混乱を招いています。文科省の大学設置基準をはじめとした時代にそぐわない規制が未だに現場を支配しているのが現状です。もっとも、文科省の責任になすりつけるのは不本意で、大学のなかの人のマネジメントが成功しているとは言いにくいという点も付記しておかないと不公平でしょう。

あともうひとつ重要なことは、大半の学部学生にとっては、研究なんてどうでもいいってこと。

だから、大学受験以降(要するに研究)のことを考えて思考力を磨こうなんて動機がそもそも起こらない。

研究なんてできてもできなくても、卒業さえできれば就職にはあんまり関係ないからね。

あそこの研究室はあんまり実験しなくて済むし就職活動自由だぜ!とかいう理由で人気が殺到する研究室もあるほどで。

大半の学部生は教授に教育とかされても無意味と感じてて、資格の勉強やら就職活動を自由にさせてもらって、

適当にどうでもいい卒論書いて卒業させてもらって大学の名前を利用してそれなりの企業に就職できたら、

それが一番嬉しいって状況があるわけで、そこをまず受け入れないと。

そんな奴等は大学に来るな!って言っても「大学行かないとそれなりの企業には就職できないじゃん」ってわけで。

そろそろ、大学は研究機関としての役割、教育機関としての役割、就職予備校としての役割の3つについて、なんとかしたほうが良いと思う。

結構「こんな状況で誰が得するんだよ…」って感じになってきてるわけで。

この増田氏はこのエントリを読む限り博士課程まで経験しておられるので、ポジショントーク的に学部学生を擁護する立場をとっておられる。そして増田氏と id:next49 氏の意見の間に「研究分野 discipline」の差による、意見の温度差のようなものも感じる。…のだが、増田氏がこのように学部学生を擁護する態度を採るときに、どうしても「プロセスの軽視」が擁護する側の考え方の態度に入ってきているように思えてならないのだ。

言い換えると、大学での「本当の学問(というか本当に教えたいこと)」の事を考えると、「答えを手に入れることはさして重要ではない、行き当たりばったりの中から、自力で秩序を見つけ出していくための知的能力を成長させることが重要である」にもかかわらず、学生はこれを無視してしまいがちで、Wikipediaの記述みたいな「答え」を求めたがる。next49氏の他のエントリを見ても思うが、next49氏の感じるもどかしさの原因もこの辺にあるのではないか。

教師として私は思う:だれも君の「きれいな答え」なんて見たくもない。だって、そんなものはじめからありはしない。あるのは「受け売りの答え」か「自分で捏ね上げた答え」だけだ。
 世間に放り出されたときに、そこには「正解」なんてありはしない。あるのは「自力で捏ね上げた自分の答え」だし、その積み重ね(それは後悔の積み重ねでもあるが)が日々の生活ってやつだ。そこをよりタフに生き延びる能力をつけて欲しいってだけだ。
 「知は力なり」ってそういうこと。

まず、教授・准教授などの大学で指導する側が何を考えているのかというと、彼らにとっては自分や研究室、研究科、大学の研究業績を上げることが最大の目標であり、学生には「アカデミック」の世界での研究プロジェクトの「駒」として1つでも多くの業績を残すことを求めている。

一方、学生が大学に求めるものは(価値観は人それぞれなので統一した見解を述べることは出来ないが)、高等学校教育(学部教育)の延長としての勉強だと思う。少しかっこよく言えば「知識や技術の探求」である。ただし、数年のモラトリアムを楽しむ事が目標だったり、就職活動を有利にする為に学歴を良くすることが目標となっている学生も少なからず居るということは否定できない。むしろこの考え方を持った学生の方がマジョリティなのかもしれない。

この意識の差が、大学(教授などの指導する側)と学生との間に大きな溝を生み、両者ともに不利益を被っているというのが現状だろう。

そして、これは非常に大まかな感覚的事実であるが、大学教授は“研究機関としての大学”に勤務しており、学生はそこに教育効果を求めている。ここでいう「教育」とは、実社会において必要になる知識や能力を養うことを指し、日本国内の多くの学生にとっての“実社会”とは就職先の会社、大雑把な言い方をすれば“産業界”である。学生にとっては、上手な論文を書けるようになりたいわけでも、ノーベル賞をとりたいわけでもないわけだ。教授と学生の話がすれ違うのも無理はない。

学生やその親たちが教育に求めているのはおそらくビジネスゲームのルールやその勝ち方であり、大学ではまったく違うサイエンスというゲームをプレイさせられる。その違いによって、学生は大学を楽しくないところだと感じるようになり、講義に出席せずに遊んでいる学生を見てマスコミは喜んで「日本の教育はダメだ」と罵倒するようになる。

まあ、最初からポーンって飛んでいける人間もいるけれどもそうではなくて、昔から、いっぱしの職人に(自分で判断して自分でものを作れる業務、この場合、いわく表現者)になるためには10年くらいかかるって言われてる、製造業でも、料理でも。

で、まあ、それを促成栽培するためには、マニュアルが必要だったり、または、馬鹿みたいに人間を突っ込んでポーンって飛べる人間だけを拾い上げるっていうのの2つがある。

前者の代表は官僚システムとかで後者の代表は小説家とか漫画家だったりする。西尾維新とか。

人がモノになる10年まで待てないのは世知辛い世の中だなあって思う。人の寿命が50年とかいう時代でも10年待てたものをその倍人が生きる時代になったのに2年でなんとかしようとか。

もっと普通の人が、普通に成長できる仕組みって作れないのかなあ。

ただ、先生に対しては、資料を見てもらったり研究報告をする際に「やつらは攻撃してきて当たり前、万が一褒められたらめっけもの」程度の覚悟をもって接するべきだと思います。

それに、やつらの攻撃はある程度の武装をして望めばそこそこかわせるはずです。自分の研究をよりよいものにしたいという思い(愛)があれば、これは難しいことではない気がします。

つまり(愛)がすべてなのです。

しかし、ここで問題発生。大多数の卒研生にとって、卒業研究とは「社会人ライフが始まる前の最後のモラトリアム期間」なわけです。大多数の卒研生にとっての卒業研究とは「いかにサボれるか」がメインテーマであり、それ以外の何物でもないわけです。

そのため、大多数の卒研生は卒研のテーマに「愛」なんぞ持ってないわけです。持てるわけないんですjk

そのくせ学生どもは、先生たちから自分たちの「愛のない研究」を批判されると、いっぱしに傷つくわけです。

そもそも大学の先生になるような人たちは、それ相当に努力した方々なわけです。彼らが学生だったころ、もちろん卒研に対してもそれ相当の「愛」をもって接していたはずです。そのため、「いかにサボれるか」を卒業研究のテーマとしている学生何ぞは、先生方の理解の範囲を超えた存在なわけです。未知との遭遇なわけです。

いかに「私は自分を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」と言ってみたところで、我々は自身の経験の外から出ることはできません。そのため先生方は、こういった人種に対しても一生懸命に指導しようと試みてしまうんです。

昨日漫画喫茶で「もやしもん」読んだんだけど、ああやって一年生の頃から研究室に出入りして院生や教授といろんな話や研究のことが話せたらどんなに楽しかっただろう。院生だったころ研究室のあるスタッフが「変に慕ってくる学生とかいるからやなんだよ」とボソッと言っているのを耳にしたことがある。それを聞いてそもそも学生時代に研究室の門を叩けなかったことを悔いていた自分は冷水を浴びせられた気持ちになった。きっとあの頃、あのドアを叩いていても、結局僕の何かが変わることはなかったのだ。それならいっそ制度として一年生から研究室に所属させて4年間を通して研究させたら良いんじゃないだろうか。自分はつねに物理の話ができる人、話を聞いてくれる人に飢えていた。大学に足りないのは教育がどうとかえらそうなもんじゃなくてそこなんじゃないの?

こんな意味で、僕は、教育の成功は教育方法(または教育者)の魅力にかかってると思う。
サービスの成功は買った側が満足したかどうかで決まるだろうから、これを元にざっくり言ってしまうと、「あの先生に習えて良かったか?」って問いへの答えが教育の質をそのものだと思う。
先生と生徒が近い(と僕は思っている)大学の教育では、高校までの教育よりさらにクリティカルだ。

よし、まとめだ!

表現者になって欲しい、または、考えられる人になって欲しい、と思って教育を行いました。
生徒はお金を払ってその教育サービスを買いましたが、何も得なかったようです。
背骨ないままだし、考えられないままだし、もうどうしようもない。

サービス失敗っすね。

ここで、二つの疑問。

  • 上手く教えたい考え方を学生の目の前に置けたか?
  • 学生はその考え方に魅力を感じたか?

この二つの疑問は、教育方法に魅力があったか?という質問に等しいと思う。
悩むなら、僕は全然文句ない。
1番目のブログ読んだ時には、何か書こうなんて思わなかったもん。
でも、サービスの質に問題があった癖して、クソだなんて、そんな…


僕は良い教育を買えました。
僕と同じ教育サービスを買った人も、それなりに良いもの買ったなぁ、と思っているようでした。

人格形成は、大学の教員の仕事ではない。大学に入るまえの親の教育の問題である。

。最も重要な問題は、研究の目的が分かっていない人間が研究をやらなくちゃいけないことにある。本来は、研究の目的が分からない奴は退学or留年でおkなのだが、なかなかそうもいかずごまかしてきてるからこうなる。

時間をかけることをいとわない!
時間がかかることを怖れない!

そういう気持ちが必要なのではないだろうか。

結果的に時間切れで或いは金が切れて退学になったとしても、それでいいじゃん。

自分で一生懸命考えてやった結果分からなくて退学した奴のほうが、ごまかしごまかしでなんとか卒業した奴なんかよりも、何倍も何十倍もカッコいいと思うぜ。

「一生懸命考えました。でも分かりませんでした。」

ってはっきり言えばいいじゃん。その続きに、

「でもまだ考えたいです。まだ考えさせてくださいやらせてください」

っていうか、

「もうやめます」

って言うかは本人の自由。

つか、ガッコってのは基本的に「そーゆーところ」ですよ。


小中高でも同じ。結果的に時間がかかってしまうことをいやがらずに勉強することが大事なのに、いかに少ない時間で勉強するかとかアホなことをやってるからいつまで経ってもほんものの力が身に付かないわけでして。

変な話なのですが、自分がB4とかM1くらいの頃はよく

「自分は学生で習う身だしへなちょこでOKだし、研究に興味失っても転身できるし他にやりたいこともできることも一応はあるし、少々さぼっても別にそこまで損はしないけど、指導教官は研究が仕事で、これでお給料もらってるんだよな」

と思っていました。

教官が熱っぽく語りかけてきても自分があまり熱意を持てないとき、もちろんそこには単なる感性の違いやら教官の先見の明マジ最強とか自分の無知さ加減にひどい怠惰っぷりなどなど、実に多数のファクターが影響してきます。

が、何より教官はこれが仕事なのだ、これでずっと人生やってきたのだ、研究に対しての思いが違うのだと思うと、自分は一番納得がいったのですね。

幸いにも私自身は卒論で苦労しなかったが、今でも、あの卒論はなんのためにあったのだろうと疑問に思うことがある。「どうして卒論を書かせることが正しいと思うの? その理由を教えて」という問いに明快な論理で答えられる教授がどれほどいるだろう。

ほとんどの人はそれぞれ固有のどうしてもできないことを持っている。私の知人は、自分のことを一人称で呼ぶことができない。彼は「僕」とも「俺」とも「(自分の名前)」とも言うことができない。別の知人は、「ひ」と「し」の区別がつかない。彼の出身地は東京ではない。私もテレビを見ながら食事をすることができない。他の人から見れば、どうしてそれができないのか理解に苦しむことでも、やはりどうしてもできないことというのは存在し、ただし周りの理解さえあれば日常生活に問題はない。

同じレベルで、卒業研究がどうしてもできない人というのも多く存在するのではないかと思う。教授には理解できず、本人にも言語化できない理由で、卒業研究ができない人というのがいるはずだ。そして、卒論が書けなくても社会生活は送れてしまう。

もはや、卒業研究ができるかできないかというのは、「ひ」と「し」の区別がつくかつかないかという能力を測る程度の役割しか担っていないのではないかと思う。そして卒論を書かせるというのは「ひ」と「し」の区別がつけられるように訓練するくらいの意味しかないのではないかと思う。たまたま適性のない人にとっては単なる苦行以上でのなにものでもない。もし、それ以上の社会的役割があるというのなら、「その理由を教えて」ほしい。そう、もちろん、「間違っていてもかまわない」。ただし、周りがみんなそうしているからといった「精神的な背骨」のない回答は望ましくない。

私個人は、「少子化なんだから、ようやく手厚い教育が可能になる!」と捉えるべきと思うのですが。
つまり、学部学生にプラス大学院生を多数、指導する「大学院重点化」をしてしまった訳ですが、やはり、東大、京大さんあたりは是非「グランゼコール」として、大学院大学化していただいて、教養学部教育からは解放され、日本のみならず世界から優秀な学生を集める路線に走っていただくべきかと思います。
そこまでの英語化対応等が不可能な大学は、学部までの教育を、主として日本人を対象としてしていただく、あるいは、大学によっては、英語化対応、でもお金や設備のかかる理系の実習などは一切行わない、などの特化の仕方があってもよいのかもしれません。

教員一人あたりの学生数の国際比較の数字を、もっと全面に押し出すべきでしょう。
しばらく前に、確かスタンフォードの元学長かどなたかの講演を聴いたときに、ラフに言って、うちの大学の半分くらい、と思った記憶があるのですが、正確なところは覚えていません。

国立大学の数そのものは、もともと、しっかりとした根拠を元にして増やしたのではないと思いますから、この際、きちんと見込み学生数や、必要な事務職員数、教員数(研究主体、教育主体、補助職含む)などをシミュレーションして、理想的な数字をはじいてみることも必要かもしれません。

ドイツの子供は4年間の小学校を終えた後に、3種類の進路からひとつを選ぶ。ギムナジウム、ハウプトシューレ、レアルシューレの三種である。ギムナジウムは大学に進むことになり、ハウプトシューレとレアルシューレは前者が専門学校、後者が実業学校という感じで、たとえば職人や銀行事務員になる。10 歳で進路を決めてしまうドイツのシステムは日本でも「能力に応じて誇りをもつことができるシステム」などという感じで結構有名だと思うのだが、30年前の事情と今の事情はかなり違っている。30年前、ギムナジウムに進むのは学年の10パーセント程度だったが、今や50パーセント。かつてはギムナジウムに進むのは特別な一部の人間で、専門学校や実業学校に進むのは普通のことだった。しかし今ではギムナジウムに進むのが普通になって、専門学校生や実業学校生に対する「劣等生」「落ちこぼれ」という意識が今のドイツにはある。特に実業学校には移民の子供が多く、こうした意識に拍車をかけている。ギムナジウムに行く子供が増えたのはドイツ政府の方針なのだそうだが、先生をやっている先輩の側からしたら、学級あたりの生徒数が増え、さらにかつてはギムナジウムにいなかったような物分りの悪いのがどんどん増えて、生徒の能力に幅ができてしまって教えにくくてしょうがないのだそうである。先輩のこのコメントを聞いて、能力差が自明なんだなあ、と私は思った。日本の高校の先生だったらあまりいわなそうなコメントである。

彼が見るドイツの中等教育の将来は、私立学校が増加して、階層化が進むとのこと。この将来像はまさに今の日本なのだが、要するに一般化したギムナジウムのさらに上級版が私立学校として開設され、金持ちの子供だけが行くようになるだろう、とのこと。これはまずいんだよ、中世以来の歴史の中でようやく一般化した格差のない教育システムが壊れようとしているんだ、という先輩に、いやー、日本のほうはもうなかば壊れちゃっていてねえ、という説明をした。というわけでいわゆる先進国はどこも教育の機会に格差が再び生まれつつあるのである。

根本にあるのは、「企業が「四年生大学卒」の肩書きに対する評価を下げつつあることが進学を考える学生の保護者に良く伝わっていない」ということです。
〜中略〜
それで「なんの努力もせずに学費さえ出せばどこかの大学生になれる」時期には、当然学生(とその保護者)のうち、「大学ならば取り敢えずどこでもいい」と思っている層は気が緩んで、ろくに勉強しなくなるでしょう。しかしろくに勉強しなくても入れる大学でさらにろくに勉強しないでろくに知的訓練も受けなければ、まあ、ろくな学士にはなれない。企業は当然そういう人材を激しく篩い落とす。学生と保護者もその現実に直面して、「ああ、やっぱりちゃんと努力しておいた方が自分達の願うキャリアパスを実現するためにはよかったのか」と思う、そう「社会が学習する」、そう認識が改まるまでの変化をいかにスムーズにするか、また過渡期であるがゆえに発生する端境期のフリクションをいかに緩和して、「大学に本当に行くだけのことがある、そのつもりがある人だけが大学に行き、その人はそれなりの試練を受けてそれなりに能力が開発される」ようになる状況をできるだけショックを和らげて実現する、そのためにはどうすればよいのか、それを考えるのが本質的なソリューションだと思いますね。
〜中略〜
現状では未だ、企業の側も急速な「四大卒学歴の形骸化」を十分はっきりとは呑みこめていないようです。「いつの時代も「いまどきの若者は・・・」と思っちゃっているだけで、つまり自分達が年をとったのかな」とか、なんとか旧来のフレームで目の前の現象を解釈しようとしている。
〜中略〜
「本来大学はそんなところではない」というのは、あくまで「過去の正論」であって、大学進学率がこれだけ高くなったのに、おなじ要求水準が通じるわけはないです。では大学定員なんて増やすな、バカ大学生なんて世間に出すんじゃない、というのもどうですかね?実際に、いまの日本社会の現実では、やっぱりもうちょっとなんか知識を身につけたほうが良いんじゃないか?と本人も家族も周囲も思ってしまう高校卒業者が大いにいるのも現実で、だからそれに合わせて大学はどう変わるべきか?ということを僕はずっと考えてきたつもりです。これを、ただ「昔ながらの大学」を世界遺産みたいに保護していればいいということでは解決に逆行すると思いますね。
〜中略〜
おそらくは、「大学卒業資格」を得るだけの訓練を入学者に施せない大学は、遠からず受験者とその保護者の信頼を喪失し、経営が立ち行かなくなるでしょうし、市場から退出するでしょう。

一般に大学では自分の専門のこと以外でいかに優れていても評価されない。まあそれはフェアなのだと思うが、それが勢い余ってた他の領域で優れていると、「そこに割く力が余っているなら専門領域でもっと良い仕事ができるんじゃないか」、極端に言えば「さぼってる」ってことじゃないか、みたいな雰囲気があると思う。これは明らかに間違っているのだが、大学の中も外も、それなりに競争社会だし、足の引っ張り合いもあるわけで、勢いこういった雰囲気が蔓延していると思う。教授同士でそれをしている分には、まあお互いのアクティビティを下げているという程度のことだが、学生に向かってもそのような姿勢で教育をしたり、評価をしたりするのはいただけない。が、残念ながら現実としてはしばしば見られる光景である。

私は理系学生は出来るだけ大量に論文を書いた方が良いと思っています。大学に残りたい人以外にはあまり意味がないと思われがちな論文書きですが、将来大学に残りたい人と同様に、将来就職をするつもりの人も論文を書くべきだと思います。

  • 就職に有利になる
  • 自分の成果を体系的にまとめる練習になる
  • 成果をアピールをする練習になる
  • 人前で発表をする練習になる
  • 勉強する必要性が発生する
  • 自分の本棚に飾れる
  • 研究室の仲間と濃いコミュニケーションになる

科研費全体の申請者の内、91.5%が国公私立大学に所属している12)。この割合が「若手研究」申請者にも適用されると仮定すれば、若手研究AおよびBに申請した1万5,720人の内(若手研究はA、B併せて一件しか申請できない)、約1万 4,400人が国公私立大学の所属と見積もれる。そして「若手研究」の応募要件である37歳以下に該当する国公私立大学教員(短大を除く)は、平成13年 10月1日現在で4万660人であるので13)、申請者は該当教員中の約35%にあたる。また採択件数は若手A,B合わせて4,361件であり、従って応募対象者数から考えると見かけの獲得率は11%である。科研費はグラント支給期間が2年〜3年であり、新規・継続ともに若手研究A、B併せて一件しか申請できないので、真の獲得率は22〜33%であると考えられる。

 一方、博士号をもつ(研究グラントの応募要件)米国の常勤の若手教員(Junior faculty)数は4万7,368人であり14)、 3章で示したように常勤若手教員の42%がテニュアトラック(応募要件)であると仮定すると、約1万9,900人が米国の若手研究グラントの応募対象者と見積もれる。実際のグラント採択件数はCAREER PROGRAMとK Awardsを合わせて3,529件であるので、従って見かけの獲得率は18%程度である。CAREER PROGRAMとK Awardsはグラント支給期間が5年であり、それぞれ同一期間内に一件ずつしか申請できないので、真の獲得率は90%に近いと考えられる。

他のこと(例えばオフィスの片付けなど)をしても良かったのだが、とにかく「早く出さないといけない論文だなあ・・・」と思っていて、筆頭著者から上がってくる原稿を待っていられなかった次第。

常に「自分で書く」と決めている先生は良いのだが、私の場合、これまでは少なくとも学位にからんだ論文は筆頭著者の原稿を待つことを原則としていた。
私自身はそのように育ち、その方が教育的だと思うからだ。
しかし、ここ最近になって、この方針を変えるべきかと考えている。
皆それぞれ向き不向きもあり、好き嫌いもある。
原稿が来るまでじっと待つよりも、ボスがより関わる形で論文を仕上げる方が、より長い経験を生かしたものになり、お互いハッピーではないか。
筆頭著者の人も、自分がその立場になったときにはじめて苦労すればよい。
論文を書くより他に必要なスキルはいろいろある。

ついでですので、これに関連することとして、普段から疑問に思っていることを述べさせていただこうと思います。


それは、「卒業判定会議」。


これ、一体何のためにやっているのでしょうか?


卒業判定会議というのは、その名の通り、卒業できるか否かを教員達が審議する会議です。マイスターの勤める大学では、学部4年生の2〜3月に行われます。

学生は、卒業に必要とされる単位をすべて集めていたとしても、形式上はまだ卒業が確定したわけではないのです。この卒業判定会議が終わった後で、はじめて「卒業確定」となるのです。
ただ、もちろん実質的には、卒業論文を含め必要な単位をすべて習得している学生であれば間違いなく卒業はできます。


では、一体、何のためにこんな会議を開いているのか?
それは、ごく簡単にご説明すれば、例外を作り出すためです。
具体的に言うと、「卒業があやうい学生」を救済するためです。

卒業判定会議では、単位が足りずこのままだと卒業ができない学生のことが審議されます。

大学まで来て「勉強」で成果を挙げるには、まず「何かに努力して取り組んだ経験」がせめて必要。いまの大学生は「生まれて来てから勉強はもちろんスポーツも遊びも恋もなにかに打ち込んだ経験がそもそもない子がいる。これで二十歳になってからなにかに打ち込む気には容易にならない。

抽象概念を操る能力。これは小中高と少しずつ積み重ねなければ身に付かないし、他人が教えられるものではない。自分の中で抽象化というのをやってみなければそもそも「抽象」という抽象概念を理解できない。でもこれ、親も具体的事実のみの世界に生きて抽象的観念を意識したことがないとしたら、どこで身に付く可能性があるんだろう。

大学という環境では、向上心や上昇志向といった意識も周囲の雰囲気に引っ張られる。ブランド大学では上の方に引っ張り上げられるが、人が努力しているのを見ると不安になるタイプが多くを占めるような大学の寮では、資格の勉強などしたくても引っ張り下げられる。引っ張られたら周りをまた引っ張るようになる。おそるべきポジティブ・フィードバック。

今日、学部の授業を聞いている1年生から「私はまだ何をやりたいのかも決まってなくて」と言われてたまげた。むろん「1年で決まってたら大変だよ」と伝えた。自分が何をやりたいかなんて言うのは、48年生きてやっと少しずつ分かってきた、あるいは分かってきたような幻想を持つようになった、くらいの話である。

こういうのを聞くと、今の学生はかわいそうだなぁとつくづく思う。キャリアディベロップメントとか、自分探しとか、そういう変な言葉が若年層に広がり、あわてているんだろうなぁ。学生の就活なんかもそうだ。きちんとやりたいことを決めないと先に進めないというような圧迫を社会が加えるもんだから、早合点したり、浮かれたり、落ち込んだり、やらなくてもいいことに振り回されている気がしてならない。

これだけ選択肢がいろいろある社会において、また我々の時代には想像もつかないほどの大量の情報があふれる中で、かつ精神年齢の全般的低下が叫ばれている中で、20歳そこいらで何かを決めるのはとてつもなく難しい。

この件に関連して、全然ちがった状況でのケースを思い出す。

発展を続けるブラジルの中で、北東部地域ではまだ貧困が蔓延するなど発展が遅れている。その1つの原因として、現地の企業経営者や政府担当者等へのインタビューの結果、彼らの間に、労働者に対する教育がかえって地域の競争力を奪うことを危惧し、それゆえに教育に対して消極的になるという「教育へのおそれ」がある、と指摘した論文が数年前にあった。

彼らは、労働者への教育すべてに対して否定的なのではない。むしろ、8年間の初等教育(日本の小中学校に相当)に関しては、積極的にその価値を認めており、労働者募集でも初等教育の修了を条件とすることが多い。しかしその後3年間の中等教育(日本の高等学校に相当)を受けた人々は、もはや工場でのつらい労働には満足せず、より快適で給料も高いオフィスでの事務作業等を求めて都会へ出ていってしまう。中等教育が、労働者の「期待」の水準を高め、企業側の期待とミスマッチを起こしてしまうというわけだ。

この「メカニズム」、けっこう汎用性があるのではないかと思う。人間の能力(とその金銭的評価)は直接測定することが難しいから、企業側はつい外形的な基準に依存してしまう。また学生側からみると、教育は人間の能力を向上させる(少なくともそう期待される)が、同時に期待の水準も高める。ときにそれは、実際の能力の向上をも上回ることがあるのかもしれない。ミスマッチの原因は、突き詰めればこの2点に集約されるのではないか。