すごくモヤモヤする。論理学の話は何の関係が?

ニセ科学はなくなんないよ〜というエントリーがあり、それへの反応のエントリー科学者は、神頼みしちゃ、いけないの?がある。で、それにインスパイアされたというエントリーがすごくモヤモヤする。

主張は、

宗教的信念の妥当性に科学的真を装わせる必要はない。

というものなのだけど、その途中で、論理学をダシにして、神を信じていることの妥当性を議論している。で、このエントリーの頭にあるのが

我信ずは真である――科学的に。
ただしもし論理学が科学であるならば(そうしてたぶん多くの人はそれに同意するだろう)。

とある。「宗教的信念の妥当性に科学的真を装わせる必要はない」という主張をするために、論理学は科学の部分体系であることを使い、宗教的信念が論理学において真となる命題であることを述べるのはどういう流れなのかすごくモヤモヤする。

で一番モヤモヤしているのが、宗教的信念が論理学において真となる命題であることを説明するくだり。この話のどこに論理学が関係しているのかわからない。

私は神を信じる。天と地の造り主を信じる。主なるイイスス・ハリストスを信じる。聖神を信じる。聖にして一つの公なる使徒の教会を信じる。これらの言葉は真実であると知りなさい、なぜなら私はそう信じているからだ――だから、私が神を信じるという、その詞は真である。

近代論理学と古典論理学を分かつ概念のひとつは命題の階梯だ。クレタ人のパラドックスパラドックスであったのは、たんに自己言及命題だったからではない ――むしろ「XはAである」と「XはAであるとYはいう」の論理的構造の違いを古典的枠組みが把握しきれないところにパラドックスが生じた(カントのアンティノミーじゃないが、パラドックスのなかには命題の性質を無視したところで命題を操作することで生じるものがある)。

繰り返す。「私はAを信じる」、書き直して「Aがあることを私は信じる」という命題は、私がAの存在を信じ、かつ私がAの存在を信じているときに限り、真である(タルスキーの真理定理も参照せよ)。ここからいえることがひとつある――Aの存在・非存在は直接にはこの命題の真偽に影響しない。ここで問われているのは私がAが存在するという信念内容をもつかどうかなのであるから。

今の主流は記号論理学だと思うので記号論理学で考えるけど、記号論理学はどのような論証(前提となる命題の列と結論となる命題のセット)がある観点からして妥当なものであるのかを検討する学問なので、ある1つの命題が真か偽かというのは基本的に興味の対象外だと認識している。特に論理の枠組み(特に論理式の真偽を定める枠組み)を述べず、ある命題の真偽の判定をしてもしょうがない。上記の文は、論理学というよりも日本語において、ある文が真と感じるかどうかを議論しているように見える。

また、「タルスキーの真理定理」というのを知らなかったのでGoogleで調べてみたけど、多分、このことだとおもう。

タルスキーの規約T(Convention T)によれば、或る言語Lに関する真理の十分な理論(a satisffactory theory)は、言語Lのあらゆる文sに対して、「sが真であるのは、pである場合に、またその場合に限る」という形の定理を含意(entail)しなければならない。その際、「s」はsについての記述で置き換えられ、「p」は、Lが英語であるなら、s自身によって、Lが英語でないなら、sの英語への翻訳によって置き換えられるのである(Tarski,"The Concept of Truth in Formalized Languages")。(『相対主義の可能性』137ー8頁、原著p.76)。
http://www.eleutheria.com/philosophia/data/451.html:titlePhilosophia BBS Topic 451より転載)

これが上記で言われているタルスキーの真理定理だとすると、その定理は、ある言語Lにおける真理について述べているので、ある言語Lのある文について真を定める話をしているわけではない。なので、「Aがあることを私は信じる」という命題が真であるかどうかは関係ない。

書きながら大体モヤモヤが晴れてきた。どうしても上記のエントリーにモヤモヤを感じていたのかといえば、主張と論旨の乖離、論理学を使っているという話において論理学が関係ないという2点が私のモヤモヤの原因だった。なお、上記のエントリーで言う「論理学」が記号論理学でないならば、私の書いたことは全く関係ない話。