消化するのに20年近くかかった思い出

大学からの帰り道、ふと、中学校のときにとった卑怯な行為についてふと思い出した。

フリードリッヒ4世崩御後のローエングラム政権に帝国大貴族を叩く援助を申し出るフェザーンみたいな立ち位置で嫌いなやつに嫌がらせするのを援助していたのだけど、やっているうちに何かつまらなくなってきて、かつ、ちょっと怖くなってきて引き際が見つからず、困っていた。

で、その嫌がらせの終息のためのネタとして、「Aさんを私の前につれてきたら止めるよ」とその嫌がらせをしていた相手のBに伝えてしまった。そのAさんは、この件とは関係なく私に仲良くしてくれている人で、独特の雰囲気を持つ人だったのでクラスの他の人からはちょっと一目置かれている人だった。

それをBに伝えたあと、ほどなくして、BがAをつれてきた。Aは私とBの間に何があるのか別にしらず、「こんにちは、元気だった?」と明るく話しかけてきてくれたのに、私はそれに反応せず、いきなりBに土下座して謝った。一刻も早くBへの嫌がらせを終わらせたかったのだ。その後、Aさんは「はっ?何?」と驚いていてように覚えているが、そのあとどうやって、その場を終わらせたのかはもう忘れてしまった

私が恥かしく思うのは、自分がやったことを終わらすネタとして、仲良かったAさんをダシにつかってしまったこと。あのときに、元気に嬉しそうに挨拶してくれたAさんを思い出すと、胸の奥が痛くなり、すぐに大声出して、走り回りたい気分になる。そして、すぐに振り払って別のこと考えたくなってしまう。今、この文を書いていても、胸の奥がむずがゆい。

普段は、この記憶を思い出すと同時にすぐに振り払ってしまうのだけど、今回は、先日読んだ「あなたを危機から救う一分間謝罪法」の「自分を許す」という原則を思い出し、ちょっと、その思い出を検討してみた。「なんで、おれは今でもこの思い出をこんなにも恥かしく思うのか?」と。

結論として分かったのが、上に書いたこと。Bは今でも嫌いだし、あのとき謝ったから別になんとも思わないが、Aさんには本当に申し訳ないことをした。Aさんの私への好意を私は自分の失敗を糊塗するのに使ってしまった。多分、Aさんが私と仲良くしてくれたのは、私がAさんに一目置かないで普通に接していたからなのに。私の失敗の糊塗のために私もAさんを特別扱いしてしまった。本当に卑怯だった。

これに気が付いて、心の中で「Aさん、本当にごめんなさい。私は自分の失敗を糊塗するために、Aさんを利用してしまいました。しかも、Aさんの私への好意を利用して。私は卑怯者でした。本当にごめんなさい。」と私の記憶の中のAさんに謝ったら、やっと、この記憶が自分の思い出としておさまったように思う。

今、このエントリーを書きながら、この思い出はしょうもない小さいことだなと思うのだけど、この小さな思い出が20年近く私を赤面させ、大声で走り回らせたくしていたんだから、人間の心の動きや記憶の働きは不思議なもんだ。

以上、この記憶が思い出になったことを記念するとともに、謝罪の重要さを覚えておくためにエントリーにしてみた。