自分の身にふりかかったときに冷静でいられないからこそ

「『1人殺せば99人助かるのと1人救うのに99人死んでしまう』という状況において、あなたはどう決断するか?」みたいな話があるとき、私は多くの人が「1人殺して99人助ける」を選択してくれることを期待する。当然、私も「1人殺して99人助ける」を選択する。でも、もし自分がその1人なら、あるいは私の大事な人がその1人ならば当然、「1人救って99人殺す」のを選択する。これは私の中では全く矛盾しない。なぜなら、私は他の人が「1人殺して99人助ける』を選択してくれることを期待しているからだ。

どう考えたって、私自身の命と私が大事に思う人の命は、他の有象無象の命に比べて圧倒的に思い。「1人救うのに999人殺す」という選択をしても良いくらい。また逆に、その1人が私にとって有象無象ならば、あるいは、殺される99人の方に私や私にとっての大事な人が含まれている場合には、私は逆の選択を当然にする。そして、その100人が私にとって有象無象ならば、私は躊躇なく「1人殺して99人助ける」を選ぶだろう。

他の人もほとんどこのように選択するに違いない。

民主主義が最良ではないが、最悪よりも少しはマシな制度であるのは、基本的に上記の理屈が働くと思われるためだ。この理屈は全員にとってHappyではないが、多くの人にとって飲み込めるラインだ。しかし、絶対君主制や寡頭制、独裁制では、この理屈が働かず、君主や独裁者、貴族にとって大事な人だけが生き残り他の「99人」はどんな場合でも殺される。これは多くの人にとってUnhappyな事態だ。

何が言いたいかというと、「1人殺して99人助ける」の1人が私や私の大事な人だったとき、私は絶対に社会全体の幸せを最大化する方向には判断できない。これは確実。そして、他の人も同様だと思う。だからこそ、当事者ではない人たちには常に冷静に社会全体の幸せを最大化する方向に判断を下せるようにして欲しい。そう思うからこそ、私も常に冷静に社会全体の幸せを最大化する方向に判断を下せるようになりたいと思っている。繰り返すけれども、当事者がまともな判断できないのは当たり前で、社会全体の幸せを最大化する方向の判断は赤の他人がするべきことだ。

絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明したら、やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。
福耳コラム:ケーキより)

この学生さんたちが、カテゴライズをされる患者の立場や患者の身内の立場において「かわいそうだ」と思うのは全く問題ないし、当然だと思う。しかし、もし患者とは赤の他人の立場であるならば冷徹にカテゴライズするということに賛意を表して欲しい。もし、赤の他人にも関わらずその人の立場に深く感情移入してしまうならば、その人に引きずられて社会全体の幸せを最大化する方向には判断できないことになってしまう。

そうなったらとても困る。どうしてかといえば、「1人殺して99人助ける」の1人が私や私の大事な人だったときに、私の判断が世間に受け入れられ、社会が99人殺す方向へ走ってしまうからだ。私が正常な判断能力を失っているのにも関わらず、その私の判断に従って社会が99人を殺してしまったら、私は結局社会を殺してしまうことになってしまう。社会を殺してしまったら、私が大事に思う人たちやその大事に思う人たちの子孫たちが幸せに生きていく場がなくなってしまう。そうしたら本当に困る。というか、そんな責任を私はとれない。

もちろん、ここで言っていることは私が社会のために自己犠牲をささげる宣言ではない。何度でも言うけれども、私が殺される立場ならば、なんとしても生き残るため私は最終的には社会を壊そうとするに違いない。「1人殺して99人助ける」という状況の1人でなくなるために私は99万人を殺すのも躊躇しないと思う。でも、私と赤の他人である人は、私が99万人を殺す前に止めて欲しい。なぜならば、そのとき、私はもう冷静な判断をできなくなっているけれども、赤の他人である人たちは冷静に判断を下せるのだから。

死刑廃止に賛成する人に「自分の最愛の人が殺されたらどうする?」と質問する人がいるが、もし私が死刑廃止論者でその質問に答えるならば、「私は当然のようにその犯人の死刑に賛成するだろうが、私と赤の他人は死刑廃止を訴えてその犯人の死刑を止めるだろう。私は私の属する社会をそのように信じている。」私はこのように考えるので死刑廃止に賛成する人に「自分の最愛の人が殺されたらどうする?」と質問する人はどうしようもないと思う。そして、死刑廃止論者が「自分の最愛の人を殺されても自分は死刑を廃止すべきだと思う」と答えるべきだと思っている人もどうしようもない。当事者は冷静な判断ができない。そしてそれは当然であるということを我々は深く認識しておくべきだ。

当事者は正常な判断ができない。だからこそ、赤の他人は正常な判断をできなければならない。そのために、我々は十分に広い視野と柔軟な頭、素朴な正義感をもって生きていかなければならないのだと思う。