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わざと書いてあることだけを読む

もし本当に、「書かれていないものを勝手に読まねば、コミュニケーションができない」のだとすると、それが本当にコミュニケーションと呼べる代物なのかどうかの方が私には気にかかる。

実は、この辺の問題は十数年前にfjで頻出していたものである。「書いてないことまで勝手に読むな」というツッコミはありふれていた。また、書いてないことまで勝手に読んで行われた議論は大抵の場合すれ違いになり、大変に効率が悪いということを経験で学んだ。だから、「書いてないことまで勝手に読まない」のは、文字のみでコミュニケーションするときの基本中の基本だというのが私の認識である。そうやっていても、バックグラウンドの違う相手とは、何回かやりとりを重ねないと主張の意味がわからないことがある。

「空気を読む」「気持ちを読む」が通用するのは、自分と極近い価値観なり判断なりをするグループ内だけの話ではないか。背景を相当程度共有していれば、「読んだ空気」「読んだ気持ち」が相手の思っていることに一致することが多くなるに違いない。ところが、文化的背景がまるで違う人同士が行き交うネットでは、いくらがんばって「空気を読む」「気持ちを読む」を実行したところで、その「読んだ空気」「読んだ気持ち」は「想像上の産物」に過ぎず、相手の考えに一致していることはあまり期待できない。こういう場合にまで、「空気を読む」「気持ちを読む」に基づいて議論したって、かみ合わないどころかますます理解不能に陥るだけである。

fjはニュースグループのカテゴリのことらしい。私は実際には使ったことない。私が大学に入学したのはWindows 98の登場あたり。インターネットが普及しはじめテレホーダイのサービスが登場したころ。私が入学した学科では、ニュースグループの使い方について一応演習があった。けど、私はあんまり使っていなかった。なんせ、怖かったので。

私が、apjさんが書かれている事柄に徐々に気がつき始めたのは悪徳商法マニアックスという掲示板を読むようになってから。あそこはいろいろなやりとりが見れてとても勉強になった。初めのうちは行間を読もうと思ってがんばっていたのだけれども、だんだん、わざと理解力を落として、書いてあることにしか反応しないようにするようになった。原因は、自分が書いたことを自分が想定していないように読まれたため。そこで始めて、文章のみでのコミュニケーションが難しいことに気がついた。ほぼ、同じころ卒業論文、外部発表論文、修士論文の執筆をする必要があり、文章のみでのコミュニケーションが難しいことを実感するようになった。

なので、apjさんがおっしゃっている「「書いてないことまで勝手に読まない」のは、文字のみでコミュニケーションするときの基本中の基本だというのが私の認識である。そうやっていても、バックグラウンドの違う相手とは、何回かやりとりを重ねないと主張の意味がわからないことがある。」というのはとても納得。

しかしながら、この納得は自分の経験を通した上でのものなので、経験したことない(目にしたことがない)人にとっては納得のいかない事柄だと思う。そういう意味で、十数年前にfjで合意を得たからと言って、それが広まっているかどうかは別の話だと思う。

文章の深読みは会話と文字の違いと会話の文法を文字の会話に持ち込むことの問題だと思います。

会話はリアルタイムで過ぎ去るもので、口調や顔の表情や相手との関係といった文外情報が伝わります。
一方文字の会話は何度も読み返せるものですし基本的に文外情報はありません。
そこで文体、語尾、括弧その他の記号や意見の違いから文外情報を読み取ろうとし、一度で読めないときは何度も読んで読み取るので持論が増幅されるのだと思います。

この分析に賛成。会話と文章ベースのコミュニケーションの違いが文章ベースのコミュニケーションの難しさ。

最近の携帯電話の普及と携帯メールの普及により、単語ベース(文章ベースとは言わない)のコミュニケーションを行う人は増えてきたけれども、その使い方が電話の使い方に似ている(非同期通信ではなく、同期通信的に使う)ため、会話の文法にしたがった文字ベースコミュニケーションなのだと思う。このため、メールを多用しているのにも関わらず文章ベースのコミュニケーションの難点を経験していないのではないかと思う。

もう一点検討するならば、「書いてないことを勝手に読まない」という訓練を国語教育で受けていないという点も上げられる。むしろ、書いていないことを勝手に読むことが奨励されているのが国語教育の悪い点。その悪癖の頂点にあるのが、読書感想文だと思う。行間を読んだり、著者の意図を汲み取るときには、テキストの中に根拠を示すべき。解釈と想像は違う。

一つの作品は確かにある作家が書いたものであり、その作家の生きた時代や環境の影響を大いに受けていますが、読者はそれらに配慮しつつも、作家になりきって作品を読む必要はないのです。読者は読者がその作品を読む「現在」の視座から自分なりに作品を解釈します。ただし、解釈には責任が伴います。その責任を、読者はテキストの中に根拠を見つけて提示するという形で果たすのです。

(外国語で発想するための日本語レッスン p.108より)

インターネットの普及、パソコンなどの情報端末の普及、労働環境の多様化と雇用の流動化に伴い移動が多くなることを考えれば、これからは非同期な文章ベースのコミュニケーションの重要性がより高まると思われる。なので、情報リテラシーの一環として「書いてないことまで勝手に読まない」ということをどうにか納得させないといけない。

とりあえず、あと2〜3年の入学してくる学生の傾向予想としては以下のように考える。

  • 会話・電話の発展形としての単語ベースコミュニケーションに慣れている
  • 自治会の解体や、放課後の習い事などのせいで、横のつながりには強いが縦のつながりに弱い
  • インターネットにのめり込む学生とほとんど使わない学生の二極化(これは今までも一緒)
  • 主張の仕方は勉強不足だけれども、自己主張はある程度できる学生が多い
  • いろいろなことを知らないだけで、案外素直

最大の特徴は均質性が高いので、違う文化が自分たちの外に存在するということが実感できていない点にある。でも、それを指摘して自分で気がつくと案外素直に聞いてくれる。なので、何らかの形で体験させる場を用意することが一番。でも、自己主張ができる分、コントロールしないと炎上し、それが元で大学に来なくなってしまうので注意が必要となる。

でも、これを授業の枠組みとしてやるのは難しい。時間が足りないし、パワーも足りない。学生用SNSでも用意して、レポート提出の代わりにエントリー100本を提出させ、それを学生間で評価させるようにすれば、ほどよくフレーミングが発生し、文章ベースのコミュニケーションが難しいことを実感してもらえるかもしれない。

追記(2008/5/20)

tomityさん、誤字のご指摘ありがとうございます。