博士論文をどのようにとらえるか?

以下の話は自然科学系、工学系でしか通用しない恐れがあることをご了承いただきたい。

私の上記エントリーの理解は以下のとおり。

  1. 博士課程の学生の方がいて、面白い研究テーマを持っていた
  2. しかし、博士論文(あるいは博士論文の提出条件の学術雑誌掲載論文?)では、その面白い研究テーマではなく社会福祉研究業界においては査読が通りやすい実証研究のテーマになっていた
  3. 理由は学位が欲しかったので博士論文が通りやすい実証研究のテーマを選んだ
  4. 実証研究ばかりを奨励している社会福祉研究業界全体の流れはおかしい
  5. 実証研究のテーマをやらないと学位や大学のポストがとれないのはおかしい

4,5の点は私は門外漢なので特に意見がない。1〜3の話については、この話をダシにしてちょっと書いておきたいことがある。

私は、学位をとるための研究テーマと実際に自分がやりたい研究テーマは必ずしも一致しなくてよいと思う。

少なくとも現在の日本における課程博士の学位取得は時間との競争である。そして、博士という学位は少し前と異なり、研究者として就職するための最低条件になっている。つまり、研究者としてやっていくためには、限られた3年という期間内で博士号を取得する必要がある(文部省は課程博士が3年で学位をとれないことに問題意識を持っており、3年で学位をとらせるように大学に要望を出してきている)。

3年で学位をとらなければならないならば、自分が苦痛と思わない範囲でもっとも効率がよい方法で学位をとるべきだ。自分が本当にやりたい研究は、経済的に安定してからはじめるのが良いと思う。というか、このように私の指導教官に博士課程のときに教えられた。私もこの考えに賛成している。

博士号というのは、優秀な研究成果に与えられる褒賞ではなく、研究を遂行する能力を身につけたことを表す資格になった。であるならば、極言すればTOEIC情報処理技術者試験、司法試験、国家医師免許試験と差がない。繰り返すけれども、博士号は一定の能力を持つことを保障する資格である。

大学や専攻ごとに「研究能力を持っていることの証明」というのは変わるのだけれども、一般的なのは、ある一定数以上の論文を、査読つきの学術雑誌で発表する、あるいはある一定水準より上の査読つき国際会議の論文集で発表することだと思う。

さまざまな研究者や技術者が口をそろえて述べている「真に新しいものについては世の中の誰も必要だと思わないし、その重要性もわからない。多くの場合には拒絶される。それが真に新しいものの宿命である。」と。自分のやりたい研究テーマが野心的で、独創性が高ければ高いほど、そのテーマの論文を最初に投稿するときの難易度は高い。たいていRejectされるらしい。何度も査読者に理解してもらえるように修正し、また投稿する。こういうことを繰り返して、野心的で、独創的な研究は世に発表されていく。

博士課程のときから真に独創的なテーマで研究を行い、立ち並ぶ難関をねじ伏せて博士号をとってみせるのが理想的な研究者像だけれども、さすがにこれを世の博士全員に求めるのは行き過ぎだと思う。何度も繰り返すけれども、博士号は褒章ではなく、一定の研究能力を表す資格だ。

大学や専攻ごとに定められている博士号取得要件は、その分野における研究者として一定の能力を持つことを保障する要件であるはずだから、その条件に特化して博士号をとったとしても全く問題はないと思う。自分のやりたい研究テーマを持っているかどうかはその後の話。博士のときからその分野で異端的な、真に新しい研究テーマで攻める人はそうすればよいけれども、みんながみんな絶対に博士のときからそうしなければならないというのはちょっと違うと思う(上のエントリーの方を指しているのではないのでお間違いなく)。

また、現在博士課程の方々にちょっと留意していただきたいのは、多くの研究者が博士号取得の際のテーマを延々と続けているわけではないということ。ほとんどの人が博士号取得の際の研究テーマで得た技術や知見、経験を生かして、別のテーマをやっていることが多い。場合によっては、それを繰り返して元のテーマから考えたらとんでもなく遠くに行ってしまっている人もいる。

たとえば、京都大学の林晋先生。私が初めて林先生を知ったのは論理学の先生として(論理学の本の著者として知った)。でも、経歴を見る限りは計算機科学がご出身、まあ、論理プログラムがスタートっぽいので論理学の出身かもしれなけれども、それがいつの間にやら京都大学の文学系の専攻で技術史を研究している。「計算機科学→数学(論理学)→技術史」と新たなテーマにチャレンジし、そのテーマに必要な知識と技術をつけ、今度はその技術と知識を種に新たなテーマにチャレンジし、そして、そのテーマに必要な知識と技術を身につけ…。と研究を続けているように見受けられる。

私がこのように強く思うようになったのは、渕一博記念コロキウム『論理と推論技術:四半世紀の展開』に参加して、第五世代コンピュータに携わっていた人たちの現在の研究テーマを聞いたため。

私が考えるに、日本人は「なんとか道」というのが好きなので、あるひとつのことを一生涯やっていくのを美しいと感じるのだけれども、研究者にとって、それは死の道だと思う。よっぽど、大きな金鉱を掘り当てない限り、一生同じテーマを研究していくというのは無理だ。あるいは途中で行き詰っちゃう。研究者というのはころころと転がる石のようにテーマを変えていったほうがよい。その証拠に学際的なテーマをやっている人たちの背景は非常に豊富。たとえば、私がいる計算機科学・情報工学なんて分野は、教授や准教授の背景は、電気工学、物理学、生物学、数学、教育学などと多彩だ。

話が散漫になったけど、研究テーマを変えていくというのは研究者として恥ずかしいことではない。むしろ、普通。であるならば、何も研究能力も立場も条件もよろしくない博士課程のときに、自分のライフワークになりそうなテーマをやらんでも良いのではないの?と博士課程の方にそっとささやきたい。自分が本来やりたいテーマのサブテーマじゃ駄目?将来、その本来やりたいテーマに役立ちそうなテーマじゃだめ?まずは、自分の研究者としての条件を固めるにたるテーマじゃだめ?山の頂上に立つのが目的ならば、山のどこから登っても最後は到達できるじゃない。押してだめなら引いてみろという言葉もあることだし。

さらに話が散漫になったのでまとめると、博士号取得が研究者のキャリアを始めるにあたって必須条件となりつつあるので、私は、自分が本当にやりたい研究テーマをとりあえず棚上げして、博士号を3年間でとるのに適しているテーマを選ぶことを全く非難しない。むしろ、そういう割り切りも必要だと思っている。真に新しい事柄を世に認めてもらうためには時間と努力が必要であり、それは博士号取得という短期決戦においては明らかに分が悪い。

研究者としてやっていくことを決めたのであれば、すみやかに博士号をとり、研究者として経済的に足場を固めた上で、業務に違反しない範囲で自分の本当にやりたい研究を始めるのがよいと思う。