作家にとっての批判と技術者、研究者にとっての批判

書評サイトをめぐるやりとりが面白い。発端は以下のエントリー

書評サイトが1つあったとして、そこが作り手側に与える印象は、以下の要因の組み合わせで構成されると思われます。

  • そのサイトはその作家・作品を誉めているのか、批判しているのか
  • そのサイトの書評は的を射ているか、見当外れであるか
  • そのサイトの引用の範囲は適切であるか、逸脱しているか
  • そのサイトの書評は広告として機能するのか、営業妨害として機能するのか
  • 作り手の心は強いか、弱いか
  • 作り手は批評された作品の出来に満足しているのか、納得していないのか
  • 作り手側の見識は確かなものなのか、おかしいのか

そして、作り手側的に問答無用でダメなのは、以下のような書評サイトだということができます。

  • 商売の邪魔になることが書かれた書評サイト
  • 見当外れなことが書かれた書評サイト

ちなみに書評とは広辞苑第5版によれば、

しょ‐ひょう【書評】(‥ヒヤウ)
書物の内容を批評・紹介すること。また、その文章。「新刊書を―する」「―欄」

批評とは

ひ‐ひょう【批評】(‥ヒヤウ)
物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論ずること。「作品を―する」「文芸―」

ということ。

それに答える形でエントリーは続く。

そして、上記エントリーに対する反応エントリー

批判される側の身になって考えていただきたいのですが、愛があろうがなかろうが、一所懸命やったことを批判されてモチベーションが上がる人間はいません。創作はメンタルな作業ですので、落ち込みは絵や執筆速度にはっきりと影響します。そして執筆速度の低下は雑誌連載するマンガにとって死活問題でもあります。

そこで紹介されていたエントリー

とはいえ、やはり新作を出した直後の作家さんの心境はデリケートというか。100の好評よりも1の不評の方が影響がでかいとはこのことか、と実感すると共に、担当編集者さんの労苦を思った金曜日であった。

よくわかる。「自分」に対するネガティブな意見はそれが事実に基づいていようがいまいが、的を射ていようがいまいが、礼儀正しいであろうが正しくないであろうが、愛がこめられていようがいまいが、とにかくクるものがある。たいていの場合へこむ。「自分」に対するネガティブな意見はとにかくきつい。それからの回復にはある程度の時間がかかる。

なぜ「自分」とかぎ括弧囲みにしているかというと、一方で自分の行為、発言、表現物に対してネガティブな意見があったとしても気にならない、あるいは、気になるけれども耐えられるときがあるため。それは、自分の行為、発言、表現物が自分の意見や感情を表すための道具に過ぎなかったとき。すなわち、それらの行為、発言、表現物が自分の外にあるときのこと。

自分の行為、発言、表現物が自分と同一視、あるいは自分そのものであるとき、それに対するネガティブな意見にはとてもではないが耐えられない。しかし、自分の行為、発言、表現物が自分の外にあるとき、あるいは自分と同一視できる何かを表すための道具にすぎないときには、それらの道具にネガティブな意見をもらったとしても、もっと良い道具を使えばよいだけなのでさほど気にならない。

上記の書評の話に戻れば、作家さんにとって作品は自分と同一視できる「自分」そのものであろうからネガティブな意見に傷つくというのはすごくわかる。そういう場合は、特に正しくて納得できてしまうネガティブな意見にほどダメージを受けてしまう。的外れならば「あいつは、全く理解していない。見当はずれのことを言っているんだよ。」と自分を納得させることができるが、正しくて納得できてしまうネガティブな意見は、逃げられないのでダメージを丸抱えするしかなく消耗すると思う。少なくとも私はそう。

一方で、技術者、研究者の世界では批判するのは当たり前。むしろ批判することされることを「良し」とする風潮がある。なぜならば、技術者は「より良いもの」を作り出すのが基本的な目的であり、一方で、研究者は「新しいもの」を見つけたり、生み出したりするのが基本的な目的である。この二つの目的をそれぞれ達成するための第一歩は、現在と過去を批判し、「良くないもの」や「明らかでないもの」を見つけ出すことである。このため、技術者や研究者は批判すること批判されることを「良し」と考える(これを良しと考えないと技術や研究が前に進まない)。

批判とは広辞苑第5版によれば以下のとおり。

ひ‐はん【批判】
(criticismイギリス・Kritikドイツ)
(1)批評し判定すること。ひばん。
(2)人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。否定的内容のものをいう場合が多い。哲学では、特に認識能力の吟味を意味することがある。「強い―を浴びる」

あくまでも批判が良しとされるのであって、中傷や非難は良しとされない。

ちゅう‐しょう【中傷】(‥シヤウ)
無実のことを言って他人の名誉を傷つけること。「ライバルを―する」「誹謗―」

ひ‐なん【非難・批難】
欠点・過失などを責めとがめること。「当局を―する」「―を浴びる」

ただし、批判の質は重要であり基本的に「納得できること」が最重要なポイントとなる。どういう事柄が押さえられていれば納得できるのかは、分野や慣習によって変わる。ただし基本的には論理的であることが納得できるための必要条件となる(「必要条件」とは、何かが成立するためには、必ず成り立たなければならない条件のこと。その条件を満たすならば何かが必ず成立する条件のことは「十分条件」という)。

けれども、技術者や研究者にとって批判は良しとされてはいても、やっぱりネガティブな意見はネガティブな意見なので、ダメージはある。特に批判対象が「自分」である場合には。そのため、たいていの場合、批判対象が「自分」にならないように、技術者や研究者自身と行為、発言、表現物は切り離して考えるように訓練を受ける。そして、批判対象は行為、発言、表現物に限定して行うというようにも訓練を受ける。というのは願望。実際にはそうでもなかったりする。個人的に批判対象は行為、発言、表現物に限定して行うようにしたいし、して欲しい。