卒業研究の意義

もう、一月前のエントリーだけれども、
:: 事象の地平線::---Event Horizon---夏休みの宿題に意味があるのか?で「親も子供も宿題丸投げ いま代行業者繁盛」という9月1日18時36分配信 産経新聞の記事に対してapjさんが

夏休みの宿題に意味があるのかどうかから考えなおした方がいいのでは。

と問いかけている。この問いかけは目から鱗だった。

一方、以下のようにポスドク問題というのがあり、博士取得者がアカデミックポストの外には流れず不安定な雇用状況にいるという現状がある。

今のところ理由は多々あれど、日本において博士取得者は企業に必要とされないという共通認識が大学側、博士課程の学生側、企業側できっちりととれてしまっているというのが問題なんだと思う。博士取得者の売りは何かといえば「研究をする能力が(最低限)ある」ということなので、言い換えれば日本において研究できる能力を大学で教育された者は企業に必要ないということなのだと思う。

以上のことからシンプルに疑問に思ったのが、夏休みの宿題の意味を問い直す必要があるように、大学の最終単位として、卒業研究が存在する意味も問い直す必要があるのではないかということ。なぜならば、卒業研究が存在するからこそ、大学の教員は研究者であることが求められており、卒業研究は事実上、研究者への道への第一歩であるととらえられている。大学が学生に研究する能力を教育することが求められていないのであれば、卒業研究は明らかにいらない科目だ。

学生のアイデンティティーが、研究進展や論文によって左右される状態になる。そこで、「優れた研究をして発表したい」「有名なジャーナルに論文を出したい」「学振を取りたい」などという思考になる。自分に自信が満ち溢れている人が多いので、自分の能力を披露したいという欲求に突き動かされる。

学生がこう思うのはしょうがない。研究室に配属されて身につけて欲しい技能は「研究者」の技能だからだ。だって、研究室配属後に主として行うのは「卒業研究」「修士研究」「博士研究」だもの。研究者の技能の評価は、研究の進展や論文によって為されるのは普通。もっとも客観的な指標だし。研究室の主催者が自分の研究室に配属された学生に対して責任を持つのは「研究する能力」についてだけ。それ以外はそもそも研究室の主催者の守備範囲外でしかない。だって、線形代数の科目を持っている先生は、受講者が線形代数に関する知識を持つことができるようにするのがその人の責任であって、他のことは彼/彼女の責任にはならないのが普通。卒業研究という科目だけ異なるのは不自然。

卒業研究が最後の科目である大学、学部、学科では、学生の今後の進路がどんなものであったとしても、最後の一年間は学生の「研究者としての能力」が評価の対象になる。まあ、実際には卒業研究は、「(与えられた)研究テーマに対してどれだけ努力できたか」だけしか見ることはできないけれども。

昔と異なり、大学進学者も増え、自然科学、応用化学系に入学したとしても、卒業後は必ずしも研究に関係する業務に携わるわけではない。そう考えると、大学の締めが卒業研究である必要性はいったいどこにあるのか?

私は、大学の教員なので卒業研究、修士研究は仮に将来二度と研究に関連する業務をやらないとしても、今後の人生において役に立つ能力を身につけるために絶好の科目であると思っているが、そう思わない人もいるだろう。非研究職についている方々において、卒業研究というのは自分を高めるために(見聞を広められたというだけでもOKだと思う)役にたったのだろうか。今後も大学の最後の科目が卒業研究であってよいのだろうか。

ちなみに、既に単位だけで卒業できる学部・学科、研究は行わず論文だけの学部・学科があることは承知している。