外国語で発想するための日本語レッスン

まだ、読みかけだけれども。「これをすご本と言わずして何をすご本と言うべきか。」という思いがふつふつと沸いてくる。この本は本当にすごい。

日々、英語と日本語で論文を読む、書く。また、研究費申請のために報告書を書く。授業のために講義資料を作る。学生の書いたもの(レポート、論文、報告書、申請書などなど)を英語や日本語を問わずに読む。という生活を送っていると、じわじわと感じてくるのが「日本語でのまともな文章の書き方を私は知らない」という思い。そういう思いの中でたまたま本屋で見つけたのがこの本。著者の三森ゆりかさんの本で別の本は持っていたが(積読)、そちらは、子供向けの本でまだ読めていない。

三森さんは、ヨーロッパやアメリカ、南米においては「テクストの分析と解釈・批判」は必修の内容であり、用いる言語は違っていても、彼らの思考や議論の進め方がこの「テクストの分析と解釈・批判」で得た技能に基づいていることを知ったとのこと。このことから、三森さんは外国語を学び、その言語の話し手とコミュニケーションをするためには、「テクストの分析と解釈・批判」を行うための技能を身につける必要があることを主張しており、「テクストの分析と解釈・批判」を行うための技能をまず日本語で身につけた上で、外国語を学ぶことを勧めている。

まさに、目からうろこ。

この本は、「はじめに」に続いて、第一章でヨーロッパにおける読書教育の実例を説明し、第二章で「テクストの分析と解釈・批判」の前段階として、「絵の分析と解釈・批判」のやり方と実例を説明している。三章からはいよいよ「テクストの分析と解釈・批判」の説明に入る。今読んでいるのはここ。

読み途中なのにどうしてもエントリに書きたくなったのは、三森さんの以下の主張に激しく賛同したから。

p.108

一つの作品は確かにある作家が書いたものであり、その作家の生きた時代や環境の影響を大いに受けていますが、読者はそれらに配慮しつつも、作家になりきって作品を読む必要はないのです。読者は読者がその作品を読む「現在」の視座から自分なりに作品を解釈します。ただし、解釈には責任が伴います。その責任を、読者はテキストの中に根拠を見つけて提示するという形で果たすのです。

p.106からp.108にかけて、日本の国語教育の「作者の心情を最重要視した読み方」が批判されており、上記の引用文で締められている。まさにそのとおりだと思うし、三森さんのこの主張は、作家にも読者にもフェアな立場の読み方を提案していると思う。

私が国語の時間が嫌いになった理由は、小学校のとき「この作品を読んであなたはどういう情景を思い浮かべますか?」という先生の質問に対し、私が、「私は***という情景を思い浮かべます。」と回答したら、「うん、でも、正解はXXXXXという情景なんだよ。」と先生に言われたからである。私の考えを聞かれたから回答したのに、それを他人である先生が、しかも根拠なく不正解であると宣言した経験が「国語というのはどうしようもない科目だ」と私に思わせた。

一方で、三森さんが紹介している「テクストの分析と解釈・批判」のやり方はフェアだ。どうして、その情景が思い浮かんだのかについての根拠をテキスト上で示さなければならないので、その根拠からその情景を思い浮かべる妥当性について議論することができる。つまり、先生が私の回答を間違っているというためには、私が示した根拠が不適切であることを私に示し、私を納得させないといけないのである。これは、私が昔受けたとんでもない国語の授業とは大違いだ。また、「テクストの分析と解釈・批判」の授業を通して、同じ作品を別の側面に注意して読んでいる人が存在するということを理解させる、すなわち、人はそれぞれ違った考え方をしているということを理解させることができる。これは国際人になる第一歩だ。

論理的思考は、言語が異なっても通用する(各分野における研究者や実務者はどの言語を用いる国々にも存在し、通訳やある特定の言語を通じて議論することが可能であることからもこれは明らか)。なので、日本は早急にテクストの分析と解釈・批判」を義務教育に導入すべきだ。、この本は、まだ半ばまでしか読んでいないのにもかかわらず、こういう思いを書かずにはいられない気分にさせてくれる本だ。

すごく、お勧め。本屋でこの本が外国語学習のコーナーの目立つところにおいてあったら、その本屋は語学学習に関して、本当に分かっている本屋であると言ってよいと思う。

続き(2007/08/14)
読み終わった。読み終わった感想としては三森さんの開催するワークショップを受けてみたいなぁというもの。自分ひとりで本を読んで独学するにはちょっと難しい。考え方は理解できるが、方法はやはり一度教えてもらう必要があるように思う。