科学的な姿勢とすじの良い取り組み方

たとえ、トンデモ論文だとしても、水の結晶が変わったという原因が何か?というのを究明して、初めて、科学的と言えるのであって、科学的ではないから、非科学的とするのは、科学的ではありません。科学的というのは、結晶が変わった原因がXXではなく、XXであったとするのが科学的という事です。
もちろん、原因は1つではないでしょう。そういった原因がなんであったか?ということを想像したり、実験したりする、探求心こそが科学の原動力であり、それの積み重ねが現代科学だと言うことです。一般常識と異なるからという態度で否定しかしないのであれば、それは、やっぱり、非科学的でしょうという事です。

上記の引用文のおおすじの点では、まったく持って同意で、ある出来事が常識的でないという理由だけで、その出来事を検討しないというのはおっしゃるとおり科学的な態度ではない。でも、この後段に続く話

今回の場合、結晶の形が違うというのは事実なわけですから、それが言葉のせいではないという事を証明するのであれば、それはXXが原因でした。その条件をそろえた場合、言葉をかけても結晶は変化しないという必要があります。
たとえば、水道水を使ったから成分が違った。取り出す結晶のサンプルの数が少ないetc,etc
それが科学的という事です。

というのは、すじの悪い取り組み方だと思う。

私自身の考えを整理するために考えた科学的な事実と非科学的な事実。科学的に説明できることと科学的に説明できないことで分けたとおり、科学的に説明できるのは科学的な事実だけなのだから、「結晶の形が違う事実」が科学的な事実、すなわち再現性のある出来事なのか、それとも非科学的な事実、すなわち再現性のない出来事なのかをまず検討するのが取り組み方の基本であると思う。

再現性がない出来事の場合、そもそも、その出来事が起こらなかった場合と、出来事が起こったのだがその出来事が発生する原因となる条件を観察者が理解できていないため、二度目以降の試みにおいて、調査対象の出来事が発生する十分条件(その条件が満たされるならば、必ず調査対象の出来事が発生するという条件)を満たせないということである。前者の場合は、分析を行うこと自体が無駄であり、後者の場合は、調べるべき条件が膨大、場合によっては無限にあるため事実上分析を行うことができない。

科学的な姿勢を生かすためには、科学という知識体系に含まれる物事を効率よく調べるための経験的手法を学ぶ必要があると思う。