上を見るか下を見るかだと思う

内田樹の研究室: 学校のことは忘れて欲しいを読んで。
内田樹の研究室: 学校のことは忘れて欲しいは、いじめと正義の倒錯。 - カフェ・ヒラカワ店主軽薄 - 楽天ブログ(Blog)を受けての文章。お二方の意見に賛同。同じでなければならないという点にいじめの本質があると思う。いじめという言葉がでてくる環境の共通点は「均質な」環境だと思うので。

ただ、内田先生の後段の部分にはちょっと反論というか、非難されている側にも理由があるんだよと言いたい。

「理想のたこ焼き」というものをつくり出したいとする。
あなたならどうします。
「理想的なたこ焼きレシピ」を衆知を集めて作成し、「理想的なたこ焼きマシン」を作成して、全国のたこ焼き屋に配布し、それ以外のたこ焼き作成を禁じ、全国津々浦々どこでも「同じ味のたこ焼き」が食べられるようになれば、それで日本の食文化の水準が上がったと誇らしげに言う人間がいるだろうか。
いるはずがない。
あらゆるところでレシピが違い、道具が違い、焼き加減が違い、トッピングが違い、値段が違い・・・という「でたらめさ」がたこ焼きの質的向上と不断のイノベーションを可能にしているということに誰でも気がつく。
どうして「たこ焼き」については「理想の単一のたこ焼き工程など存在しない」ということを国民のみなさんはにこやかにお認めになるのに、「人間」については、同じことをお認め頂けないのか?
私にはその理路がわからない。
人間もたこ焼きも一緒である。
「教育はどうすればもっとよくなるのか」という創意工夫を自分の責任において引き受ける人の数が増えれば増えるほど教育は「よくなる」。
当たり前のことである。
「ありうべき教育」がどのようなものであるかは「こちら」で決めるから、教師たちはそれに従うように、という教育行政のあり方そのものが教育をダメにするのである。

おっしゃるとおり、良くするには各々がそれぞれの方法で良かれと思うことを行うのが良いと思う。しかし、これは上を見た場合の話。トップ集団は、この方法で間違いなくより上に上っていく。長期的にはうまくいった方法が伝播し、全体的に良くなるに違いない。

でも、下を見た場合には話が違う。それぞれが各々の方法で行うときには、当然失敗があり得る。むしろ、失敗を許すことに、みんなでばらばらに行う方法の持ち味があるのだから、失敗が存在するのは必然である。たこ焼きの場合は、失敗したまずいたこ焼きを食べるのはほんの一部の人だし、後日、おいしいたこ焼きを食べれば良い。でも、教育はたこ焼きと違う。失敗した場合には大きなデメリットを背負わなければならない(決して取り返しがつかないわけではないけど)。短期的に見れば、多くの人々が失敗する(だから、長期的には成功する)。長期的に見ても、常に一定の人々が失敗する(だから、常に革新が起こり、全体として向上する)。

人間誰しも自分の子供の教育を失敗したくない。自分自身も失敗したくない。これはどうしようもないことで、これを非難してもしょうがない。現実世界を見回してみれば、多くの事柄がマニュアル化されている。マニュアル化とは、失敗を減らすことを目的とした戦略であり、みんなが各々の方法で試みるという戦略の反対の方向にある。教育のマニュアル化は、自分の子供の教育を失敗したくないという親心に由来して、広く普及したものである。

内田先生のおっしゃる

これだけ失敗したら、文部官僚たちもいい加減学習してもよいのではないか。
それは「上からの斉一的な教育改革」という発想そのものが教育を破壊するという事実である。

というのは、確かに一部の政治家や官僚の方々が始めたことだと思うけれども、これが後押しされたのは先に述べた子供の教育の失敗を恐れる親心だと思う。

内田先生の問いかけは、全国の親にこのように問いかけているのに等しいと思う。
「あなたの子供に対して学校が施す教育は失敗する可能性があります。しかし、日本の教育を良くするためには、この失敗の可能性を受け入れていただくしかありません。さあ、勇気を出して。未来の子供のために。」

私はこの問いかけが悪いとは思わない。むしろ、良い問いかけだと思う。しかしながら、すべての人間がこの問いかけに真正面からこたえられるわけでもないし、賛同できるわけでもないと思う。教育の失敗が起こった場合の不利益があまりにも大きいから。

社会は、「みんなが各々の方法で行う=多様性&失敗を許す」、「マニュアルにしたがって行う=一様性&失敗しない」をうまく分けて取り扱っている。企業における開発は多様性&失敗を許すであり、製造、流通、販売は一様性&失敗しない。クリエイティブな仕事をする人は多様性&失敗を許す生き方を選んでおり、そうでない人は一様性&失敗しない生き方を選んでいる。なので、学校も多様性&失敗を許す学校と一様性&失敗をしない学校の存在を認めるのがよさそうに思える。本当は、私立が前者、公立が後者だったのだろうけど。