新規性と独自性について考える

すちゃらかな日常 松岡美樹:JR西日本を恫喝した「髭記者」の実名にたかるブログ・スクラムを読んで意見の新規性と独自性についてちょっと思いを馳せてみる。

かたやブログも事件当時から、いっせいにネタにした。もうどこへ行っても似たような文章ばかり。すっかりまいっちんぐマチコ先生(古)である。あなたたち、ちょっとは独自性とかオリジナリティとか考えないんですか? てなあんばいだ。

何かの事件についてみんなどう思っているのかな?と思いWeb上の意見を覗いてみると、松岡さんのおっしゃるとおり、案外みんな同じような意見を述べていることが多い。
また、よくよく考えてみると、私がある事件を見聞きしたとき思いついた意見、わきあがってきた感情はたいていWeb上の意見と同じことが多い。

自分は、その意見を持つ前にWeb上でだれかの意見や論評を読んだりしていないにも関わらず、みんなと同じような意見や感情を持つことが多い。これは、なぜだろう?

ひとつには、私が「Web上の意見」と認識しているものが自分の嗜好によって片寄っているということが考えられる。私が目にする「Web上の意見」というものは高々20くらいのWebサイトである。この20くらいのWebサイトは、ネットサーフィンしているときに私が気に入ってbookmarkにいれたWebサイトである。なので、当然、私の嗜好に沿ったサイトで気に入らないサイト(気にならないサイト)はそもそも覗くことがない。この閲覧するサイトの偏りの結果、同じような意見を目にすることになるのかもしれない。

ふたつには、ある情報に接したときの人間の反応というものは、ある同じような教育を受けた人たちの間ではあまり差がでないということにあるのかもしれない。りんごは赤い。信号は青。過去のことは水に流すのが美しいなど。ある一定の規則にそって物事を認識するように学習をしてきたので、ある情報に接したときの反応もだいたい似てしまうのかもしれない。

また、ある同じような教育を受けた人たちの間では、表現の仕方もある程度似通ったものになるのかもしれない。

三つ目には、新規性と独自性というものの性質によっているのかもしれない。新規性とは、「あるものの存在は世の中ではじめてである」という性質で、独自性とは「あるものの存在は世の中で唯一である」という性質だ。新規性と独自性はほとんど同意義であるが、新規性の方はどんなにつまらないことであっても世の中ではじめてであれば、とりあえず成立する。独自性は、その物事を考え出した過程の難しさも評価の対象とされることが多い(たとえば、「このアイデアは100人いても、1人しか思いつかないようなアイデアである」というような評価がされる)。

新規性はスピードが命である。しかしながら、世の中で新しいことであるという性質を満たしているかどうかは周辺調査をしなければわからない。でも、周辺調査には時間がかかる。この新規性の性質と「ある情報に接したときの人間の反応というものは、ある同じような教育を受けた人たちの間ではあまり差がでない」という性質が結び付くと何がおこるか?それは、「新規性がある意見を述べるには、ある情報を受けたら思いついたことをすぐに述べなさい」という経験則ができあがるのであろうと思う。

どうせ、ある情報を受けたら同じことを考えるのだから、新規性の肝となるのはスピードだけである。それが分かっているのであれば、周辺調査を行う時間などかけていられない。思いついたらすぐ発表がもっとも効率よく新規な意見を述べる戦術となる。多くの人がこの戦術をとると何がおこるか?同じような意見が氾濫するという現象が起る。

つまり、新規性のある意見を述べようとするために、同じような意見が氾濫するという現象が生じるのである。じゃあ、独自性を追求すればいいじゃないですか?と思うが、「ある情報に接したときの人間の反応というものは、ある同じような教育を受けた人たちの間ではあまり差がでない」という性質を考えれば独自性を追求するのは難しい。新たな追加情報を得るか、教育を受け直して思考過程を変更するかしか方法がない。

4つめに、Webという媒体は個人の情報発信のしやすさが従来の口コミ、紙媒体、電波媒体よりもはるかに上であるという性質もあるのかもしれない。従来の口コミ、紙媒体、電波媒体で情報を発信する際にはある程度のチェックを通過しないといけないという特徴があった。たとえば、口コミであれば「他人に伝えたいと思うほどおもしろい話かどうか」というチェックを通過しないと他人には情報を伝えてもらえない。しかし、Webという媒体は誰のチェックを受けることもなく情報発信が可能である。

この性質と「新規性のある意見を述べようとするために、同じような意見が氾濫する」という性質が合わさると、Web上に同じような意見が大量に見受けられるという現象が発生する。

以上の考えをまとめると、同じ教育を受けてきた人々が同じ情報に接すると、だいたい同じ感想や意見を抱く。その人々が新規性のある意見を発表しようとすると、同じ意見が大量に発表される。Web媒体においては、チェック機能がないため同じ意見が同じであるということではじかれることがない。ゆえに、同じ意見がWeb上で氾濫する。さらに、個人の嗜好によって見るサイトが片寄っているので同じような意見にばかり出会うことになる。

もし、私の考察が正しいとするならば、違う教育を受けてきた人々が違う情報に接すると、違う感想や意見を抱くかもしれない。
その人々が独自性のある意見を発表しようとすると、違う意見が発表されるかもしれない。個人の嗜好によって見るサイトが片寄ると自覚して、わざと気に入らないサイトを閲覧するようにすれば、違う意見に出会えるかもしれない。

というような、いつかどこかでみたような結論ができあがる。かように新規性と独自性のある意見をのべるのは難しい。

参考:

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