オレ様化する子どもたち

オレ様化する子どもたち

内田樹の研究室:オレ様化する子どもたちの書評を読んで、面白そうだったので購入。余談ですが、Amazon.co.jpは商売がうまい。購入時は、「残りがあと2点です」とこちらを焦らせる表示が。上手くのせられました。

本書第一部で述べられている「(社会的な)私」と「(この世で唯一の)この私」の違いは、非常に納得のいく考え方です。そして、小学校、中学校、高校は「私」を確立させるための場であり、「この私」を挫折させる場であるという考え方は、近頃私の中で芽生えてきた「死んだり、後に後遺症を残すものでない限り、痛い目にあっておいた方が良い」という考え方に一致します。ですから、私にとって、この学校の役割は非常に納得できるものです。

また、この考え方に基づく校内暴力が発生した理由は納得し易いです。
特に以下の部分は自分の体験からしても納得いきます。

「私」(個)の扱われ方が問題であれば他の生徒(「私」たち)も「代表していることになり、ほかの「私」(生徒)たちにも波及していく(運動化していく)が、「この私」の扱われ方の不満は「この私」だけの問題である。そういう問題は暴力行為としての表現たりうるが、みんなに通じる言葉になりようがない。

上記の引用部分の「みんなに通じる言葉になりようがない」というのは意味深い言葉だと思います。言葉は、多くの人に通じるから言葉であり、誰にも通じないのであれば「鳴き声」や「落書き」でしかありません。

もし、著者のいうとおりこの頃の子ども(と言っても著者いわく1980年代から子どもが変化してきたそうですので、私も「この頃の子ども」に含まれますが)が「この私」を剥き出しに生きており「私」を身に付けようとしないのであれば、他者である我々がこのごろの子どものことを理解できなくても仕方がないように思えます。なぜならば、通じる言葉が無いからです。

この本の第二部は、正直私には理解しにくいものでした。理由としては、著者が議論の題材に選んでいる宮台氏、上野氏、和田氏、尾木氏、村上氏、水村氏、の著作や主張を私が聞いたことがないためです。また、別の理由として著者の話の進め方が皮肉っぽい(水村氏に対する部分を除く)ためです。

個人的な意見としては、別に他人の意見をを議論の題材にする必要はなかったのではないかと思います。なぜならば、他人の意見の検証の部分よりも、その検証をネタとして、自説を展開していく部分のほうが読み易いと感じたからです。

キリスト教を持たない国であるので、学校の教師が聖職者となり、学校で掃除や部活動などの全人教育を行う必要があったという説は面白かったです。しかしながら、他の国々との比較がなされていないため説得力は無いように思えます。近代の学校制度を取り込んだ他の非キリスト教国では学校の先生はどう思われているのでしょうか?また、学校は全人教育を行わないところなのでしょうか?

最後の方のグローバリゼーションとの関わりは理解できませんでした。

この本を読み終わって思ったのは、「学生の学びを支援する大学教育」
という本との関連です。この本では、大学生に大学での学びを自分の中で位置付けてもらうために、自分自身を知るための場を授業として提供する試みについて語られています。

「学生の学びを支援する大学教育」の第7章で、大学生による英語劇の上演を通して学びを実感する試みが述べられているが、その試みにおいて1990年代前半から少しずつ要求を下げざる得なくなり、1990年代後半にはこの試みが成り立たなくなっていたと述べられています。これは、諏訪氏述べる「1980年代から子どもが変わった」という事実と符合しているように思えます(1980+6+3+3=1992)。

小学校、中学校、高校において「この私」しか持たない、すなわち、自分に対する客観的視点を持たないオレ様化した子どもがおり、その子どもが大学へ進学したときに学びを位置付けられない学生になる。非常に美しい説明です。

社会的な役割における「私」と自分本来そのままである「この私」を両方もって、初めて近代的な人間であるといえると諏訪氏は主張しています。どのようにして、社会的役割における「私」を身に付けさせるのかについては、本書では語られていません。もしかしたら、そんなうまい方法はないのかも知れませんが、うまい方法を誰か見つけて広めてくれることを望みます。