理由付けシステムとしての宗教

世界は、理由のない出来事であふれかえっている。我々にとって世界は怖いものである。そんな怖い世界から我々を長く守ってきたのが宗教である。

宗教のおかげで、我々は、日々起こってきた不幸、幸福を受け入れないまでも、受け止めてこれた。

人間は、自然によって打ちのめされる。たとえば、天候、たとえば猛獣、たとえば地形、たとえば災害。これらがどうして起こるのかを我々は明らかにできなかった。

現在も同じである。いい例が、天気予報である。科学はすさまじい進歩を遂げて、一週間後の天気をだいたいあてることができるようになった。曰く、「明日は雨です。」「今年の夏は猛暑でしょう。」「ロンドンは雨です。」

しかし、どうして、雨が明日降るのか?という問いには答えられない。「低気圧が、関東に近づいて、そのために大気の状態が不安定になるから・・・」「空気は温まると上に上り、対流がつくられ、上空に上った空気に含まれる水蒸気が・・」と答えはでるかもしれない。でも、なぜ、明日にその場所に雨が降らなくてはならないのかには答えられない。

これは答えられない問題であるし、さらには答えなくてもよい問題であるともいえる。

しかし、我々ははこのようなことに理由を求めるものである。どうして、交通事故であの人が死んだのか?どうして、自分は試験に落ちて、あいつは試験に受かったのか?どうして、どうして、どうして、どうして・・・。

そこに宗教は理由を与えた。曰く「明日、ここに雨が降るのは、だれだれの行いがよくて、神様がそれをよろこんだ云々。」「彼が交通事故で死んだのは、前世の因縁。」
人間が論理的に理由を見出せないことに、宗教は理由を与えてくれるのである。

つまり、神様を持ち出すことにより、ほとんどのことにどうにかして理由を与えることができたのである。こうすることによって、人間は少なくともどうしてその物事がおこるのかがわからないという恐るべき状態から抜け出すことができたのである。

この理由付け自体が、本当に妥当かどうかは根本的に問題でない。理由があるか、ないかが問題である。理由がなければ、当然の理屈としてそれを避けることができない。避ける努力をすることができない。しかし、理由があれば、それを避ける方法を考案できるのである。その方法が役に立つかどうかは別として。

ユダヤ教は、神様自身が何をしてよく、何をしていけないのかを明確に教えた。我々は、神様の教えのとおりにしていれば少なくとも神様によって理不尽な不幸、幸福をあたえられることはないのである。なにか悪いことがおきれば、「あれを守っていなかったからな。」何かよいことがあれば、「いつも戒律を守っていたから。」
と納得できるのである。

非常に小さい範囲で理由を与える宗教をカルトという。一方、世界規模で、住む環境も、文化も違うのに理由を与える宗教を世界宗教という。理由付けを行うシステムとしては両者に違いはない。付けた理由が多くの人に納得してもらえるか否かの違いである。

現在、もっとも妥当な理由を与えてくれるものが科学である。この理由付けシステムは、今までの宗教という理由体系と根本的に違うところがある。それは、「理由がつけられないことが存在する、あるいは、存在してもかまわない。」という考えをもっているところである。理由がつけられないことは、まだ、人間の知的レベルが達していないということをあっさりと表明してしまうのである。

科学は、何回やっても同じ結果を出せることにしか理由をつけない。我々がもしその理由に疑問を持ったならば、別の理由をつけ、その理由の基で同じ結果を何度も出して見せればよい。ここが、多くの人々に理由の妥当性を認められる所以である。

しかし、宗教は神様という人間を超えた存在によって理由のほとんどを作ってきた。神様を使用してつけられた「理由」は当時の人間が理解できなかったものがほとんである。だから、我々の知的レベルがあがってその理由を見直したときにその理由は妥当でないという判断をくだされてしまうのである。だから、我々は宗教をうそ臭く感じるのである。とはいえ、現在も宗教はいくつかのことについては最強の理由付けシステムである。

1、人類の誕生
2、自分という人間の存在意義、存在理由。
3、避けることが不可能な不幸
4、死、死後

この4つは、科学は答えることができない。なぜなら、再現不可能であるためである。

現在も宗教に身を投じる人は後をたたない。後をたたないのは悪いことではない。それだけ、4つの事柄は知りたくてやまないことである証拠だからである。

理由付けシステムという観点から見たとき、宗教は時代遅れだが役立たずのものではない。宗教は、科学という「知らないことは知らない」と言い切ってしまう理由システムには負けてはいる。しかし、科学が「知らない」と言って現在理由がつけられていない部分に対して、宗教は世の中の人々に理由を提供し、人々を理由がないという混沌とした状態からいまだ救っているのである。