教育は無粋なもの

何かを変えようとする人や廃止しようとする人が持つべき心得が、その範囲を越えて「空気読め」の亜種として適用されそうな気がしたのでこのエントリーを書いた。元のエントリーの内容を否定するものではない。

イギリスのチェスタートンという批評家の名言に好きな言葉がある。
「なぜフェンスが建てられたのかわかるまで、決してフェンスをとりはずしてはならない 」

〜中略〜

でも、これは無粋なのだ。指示を掲出すれば、指示を出せば、理解して実行されると思っているのだ。それは緊急時には実行されないし、世代をまたぐと継承されないし、新人には毎回指導しなければいけないということが理解できていない。

無粋な人は、フェンスがなぜ建てられたかを考えない。

〜後略〜

何かを変えようとする人や廃止しようとする人は、その変更・廃止対象について「なぜ、それがそうであるのか。そして、続いてきたのか」を理解できるまで、それの変更・廃止を行うのは止めた方が良いという主旨は心から同意。自分も忘れがちだからこの視点を落としてはいけない。勝間さんが以前書いたコラム「起きていることはすべて正しい」と捉え、自分の力で将来を切り拓こう!(それへの私の感想は起きていることはすべて「誰かにとって」正しい)を思い出す。

一方で、「指示を掲出すれば、指示を出せば、理解して実行されると思っているのだ。それは緊急時には実行されないし、世代をまたぐと継承されないし、新人には毎回指導しなければいけないということが理解できていない。」の部分には反論がある。良いデザインは説明がなくても、意図したとおりの行動や考えを促すのは賛成だけれども、そのデザインも「緊急時には実行されないし、世代をまたぐと継承されないし、新人には毎回指導しなければいけない」を防ぐほどの力はないと思う。なぜ、そういえるのかといえば「なぜフェンスが建てられたのかわかるまで、決してフェンスをとりはずしてはならない 」という警句が成立し、上記のエントリーが人気であるという事実があるから。警句が成立し、上記エントリーが人気であるということは、まさに「世代をまたぐと継承されない」という証拠。デザインの力で世代をまたぐと継承されるのならば、この警句は成立しない。

デザインの力を最大限に生かすには「なぜフェンスが建てられたのかわかるまで、決してフェンスをとりはずしてはならない 」という教えとその意味を教え、血肉にしてもらう教育が欠かせない。教えられなくても「なぜだろう?」と思う人ばかりを採用するという手もあるけれども、それに頼るのは場や事業の継続という観点からするとベターではない。

粋を継承させるためには無粋な教育が必要で、無粋であることを我慢しつつ誰かが教育しなければならない。ここはバランスしてきたいところ。